資料な言葉
注の補足
—2021.11.11にふと浮かんだ疑問から書き始めたメモより—
言葉そのものは果たして資料と成り得るのだろうか?
これまでの活動にまつわる行為やそこから生まれでてきた何か、特に音や音的なものは空気を振動させ、音源みたいなものやそれを作るための試行錯誤「test_」とか「_test」というファイル名が含まれる無数の記述は世界の総データ量をほんの10テラバイトほど秘かに押し上げ、大体の場合においておそらくはエントロピーも増大はさせたものの、基本的にその実体は現象であることが多いので姿を消し、どこかに行ってしまった(=すぐには確認できない形態になった?)と考えるのが妥当だろう。と言っても、根本的に「消えた」わけではないと思うし「実際に消えてはいない」。なぜならわたしはそれらを何らかの形で覚えているし、それらのいくらかが確実に「今のわたし」に結実しているからだ。
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と、言葉そのもの、とわたしが書いたのは、言葉には話された(る)言葉(は↑の音的なものと命運を同じくするのだろう、か?)、身体でパフォームされた(る)言葉、(あらゆる形態の)記された(る)言葉、何かが考えられた時に(その他のイメージなどと不可分な状態もありつつ、それでも言葉的な何かしらを経由するケースも含めて)使われた(る)言葉、想像された(る)言葉など、とこれらの順列・組み合わせパターン的なものやそれ以外、そして細かく言えばこれらを様々な形態で受ける側の言葉も在る(のかな?)としたら、話された言葉を聞く・見る側の言葉、身体でパフォームされた(る)言葉を聞く・見る側の言葉、記された(る)言葉を読んだ・触った時の言葉・・・的に・・・際限なく分化され得るし、そもそも、かつ、最終的にも区別不能であるという認識に基づいたうえで、何かそういう差異をズドーンと貫く「言葉そのもの性」みたいなものが「言葉」にはやっぱりあるんじゃないかな?なんてことを想像してみているからだ、が;わたしが「言葉そのものは果たして資料と成り得るだろうか?」と言った時の言葉というのはこういう理解の総体みたいなものをおぼろげにではあるが対象にしているのでanswerは無数に存在する、そういうことは知っている。
ひと~つ、そういうごちゃごちゃといろんな雑草や低木やツタ植物なんかが絡みまくってて、我々の侵入を阻むかのようなブッシュ的な理解の総体みたいなものをかぎ分けて、ふぅーっと見えてくる青空のよう、か・どうか・は・わからない・が・そう、考え・の・ひとつ・に、資料・に、なり得るだろうか?と言っているわたしが気にしているのは「言葉そのもの性」ではなくて、「言葉」が信用できるかどうか・なんだ。
だって誰かの言葉でしょ?誰かって信用できるのかな?ものすごいたっくさん考えてる人だッ!たとしても、ものすごく物知りだっ!たとしても、人類が想定出来得る最大限にフェアな人だっ!たとしても、いやあのね・みんな・がね、いやほんとに無数の人達だよ、が信用した誰かだっ!たとしても・さ、誰か、でしかないわけですよね。究極のところ・・・って、そこを疑いだしたら何も成立しなくなる?なら何も成立していないのかもしれない、ね。と、見えてきた青空は・瞬く間に曇り、雲行きが怪しくなり、突風が吹くなり、カミナリ、落ちる、yeh。So 言葉そのもの、ってのは、そうね、そもそも信用できないかもしれないよ、という「言葉」をだね、最終的に何が、誰が、(何のために)、確実(なんてないよと嘆くなよ俺)に担保するのかねぇ。と問う、中、空、の、体。なっぞ・謎ですね。で、もちろんこれも・言葉・俺も・誰か。とは言っても、アーカイヴにおける核心である言葉を疑うと元も子もなくなるのは承知の上でも、やはりこうして一回は考えて、おかないと。