20211110_〔アーカイヴ〕の声を聴き、考察すること

注〔アーカイヴ〕の声を聴き、考察すること という命題を自分に立てた。そうするうちに自ずと、何かしら具体的なアーカイヴ(例えば京都市立芸術大学の収蔵品のようなもの)というよりもアーカイヴという考え方やそうすることのモチベーション、あるいはアーカイヴすることというのは何なのか?アーカイヴされ得るものとは何か?などといった思索の迷宮へと(早々に)入り込んでいった。

注の補足

—20211021の思索より—

アーカイヴという言葉に紐づける?

On Archives and archiving, disappearing and being ephemeral3–1

エフェメラル3–2であることは必ずしも消えることを前提としてはいない。

アーカイヴする行為が何かを残す試み、というよりも語源的にはアーキテクトとかそういARCHなんちゃらで「家」的なニュアンスとかが絡むことを考えると風が吹いて何かしらがころがって自然的に「建つ」家なんてものはないわけだから、意図があって残すっていうのは低く見積もっても方向性はあってるだろうし、なんなら設計図もあるし、少なくともその種みたいなものが生まれてこれる土壌は担保しようということはあるはすだ、とは思いつつその対象は放っておけば消えて無くなることや(これも自然的にというより対抗意図的に?という懸念を込めて)散逸して意味を喪失してしまう可能性が前提になっているのかもしれないから、生まれ得た(る)知の可能性を確保しておこうとしているとも言えるし、知というのを「(権)力」と置き換えると、実際に人類がやってきたこととアーカイヴの説明を現実に則した形で補完するものにはなると思うが、要はエビデンスだ、猫も杓子も!?エビデンス。(権力をもってるやつが作ったものがそいつらの行為の正当性を確保しうるのか?というそもそもの問いはここではおいておく。)

目に見える、読むことができる、ある程度、その「(オリジナルの)まま」風の装いをもった、疑われることの(少)ないやつら、はあたかも、えぇ、この先もずっと残るかどうかってことですか?あぁ、そういうのはねホント得意すっていうか余裕っしょ、と昔ながらに紙の上で、あるいは今や点滅するゼロイチの配列として物理的な肉体を超えたアーティフィシャルな永遠をひけらかしつつ、意気揚々と語りかけている、という見方はあまりに穿っているでしょうか?

わたしは聴く

アーカイヴの沈黙を

ある言葉が発せられ/記されると、それ以外ーというニゲイトされた空間や存在が同時に立ち上がる

アーカイヴされる何かは必ずアーカイヴされない何かを(も)立ち上げるんだ

その境界はどこかにある、少なくともこの段落の上の段落を入力した、俺の、あの瞬間には存在したかあるいはその瞬間にその境界が作られたはすだ、無いものを記すことは出来ないからだ、にも関わらず、漸近することと超越すること以外に境界にアプローチすることはできない、(境界)点とか線というのは概念であって物理的な定量を持つ領域とは違うんだから、まさにそれこそが永遠に境界の遠さを決定づけているんだろう。だからあちらとこちらのような二分された世界は確定され得ない、つまり無い、つまり世界はやはり一つである、いや複数的にひとつの世界を成す?んだから、と言った時にニゲイトされた空間はどこで何を申すのか?と言えば逆相としての前言は強化されるだろうか?

あるいは…

  • 3–1 disappearing and being ephemeral

    inspired by this sentence “performance does not disappear thoughits remains are immaterial”
    Rebecca Shneider(2001), Performance Remains, Performance Research, 6 : 2, 100–108

  • 3–2 エフェメラル

    はかない何か、を言い表す語。字義的にも消えることは前提ではない、と思う。(状態の変化は織り込まれているだろうか?)「ある瞬間」に最も存在する、という状態のもの、あるいはそういう印象を与える何かともいえるだろうか?
    蛇足かもしれないがわたしは文字にもそういうモードがあると思う。例えば小文字と大文字。アルファベットのね。
    ご存じ、って知らんけど、の通りわたしは活動の超初期から自らの活動名をmamoruというオール小文字のスペルにして(数々の面倒な誤植や面倒なやり取りをあちこち国際的に繰り広げてきた、というのはいいとして)20年来やってきたんですけどね、それは意思の表明でもあったし、感覚の問題でもあった。大文字ってなんか偉そうだし、名前の最初は大文字にするもんだ、みたいな大・大前提というような規定に対して疑問を持つことが大事だとも思っているし(今どきはフェミニストの方達が小文字推進してて、仲間が増えたみたいな気になってたり、自らの行為が理論化されたみたいで嬉しかったりしてます)。なんとなくMamoruって画的にも中途半端じゃない?Mamoru Okuno(あ、これ俺の名字ってやつ。オフィシャルには初出かな?)ってのはなんかしっくり画的には来るんだけど、自分のことをOkunoの誰か…っていう風に実感したりアイデンティファイしたことはこれまで一度もないから・・・なんかねー名字いらないかもって思ったんですよ。そうするとMamoruだけが残るでしょ?で画的な問題。そこにall sorts of other thingsが絡まりあって、mamoruが生まれた。そう、この時の俺は・・・その後に中国語世界では奥野翼〈つばさって書いてまもるなんですよ。それもややこしい一因。完全当て字だからね〉って書かれる問題から「馬寞路」という表記を生みだすことになる事とか、英語圏でも常にラストネームないとなんか変だよって言われる問題(これはMadonnaだってラストネーム使ってない、という強烈な先例を出すことによって笑いとともにだいたいは解決してきた)などが発生することは知る由もない。

    ん、何の話でしたかね?

    はかなさ、か。

    そう、小文字のほうがなんとなく謙虚で、生まれ死に去っていく(消えるかどうかはやはりここでも曖昧である)といういのちの有り様を反映しているように、わたしは、思うんです。まー文字ってそもそもしつこい感じするけど、それはそれで知ってるよ、でも少なくとも大文字のように大声で主張したい感はないのかなって思うんですよね。

    はかなさ、はわたしにとって、ある種、何かのクオリティを高める意識をもたらしているように思う。