〔アーカイヴ〕の声を聴き、考察すること
〔アーカイヴ〕の声を聴き、考察すること という命題を自分に立てた。そうするうちに自ずと、何かしら具体的なアーカイヴ(例えば京都市立芸術大学の収蔵品のようなもの)というよりもアーカイヴという考え方やそうすることのモチベーション、あるいはアーカイヴすることというのは何なのか?アーカイヴされ得るものとは何か?などといった思索の迷宮へと(早々に)入り込んでいった。
注の補足
—20211021の思索より—
アーカイヴという言葉に紐づける?
On Archives and archiving, disappearing and being ephemeral
エフェメラルであることは必ずしも消えることを前提としてはいない。
アーカイヴする行為が何かを残す試み、というよりも語源的にはアーキテクトとかそういARCHなんちゃらで「家」的なニュアンスとかが絡むことを考えると風が吹いて何かしらがころがって自然的に「建つ」家なんてものはないわけだから、意図があって残すっていうのは低く見積もっても方向性はあってるだろうし、なんなら設計図もあるし、少なくともその種みたいなものが生まれてこれる土壌は担保しようということはあるはすだ、とは思いつつその対象は放っておけば消えて無くなることや(これも自然的にというより対抗意図的に?という懸念を込めて)散逸して意味を喪失してしまう可能性が前提になっているのかもしれないから、生まれ得た(る)知の可能性を確保しておこうとしているとも言えるし、知というのを「(権)力」と置き換えると、実際に人類がやってきたこととアーカイヴの説明を現実に則した形で補完するものにはなると思うが、要はエビデンスだ、猫も杓子も!?エビデンス。(権力をもってるやつが作ったものがそいつらの行為の正当性を確保しうるのか?というそもそもの問いはここではおいておく。)
目に見える、読むことができる、ある程度、その「(オリジナルの)まま」風の装いをもった、疑われることの(少)ないやつら、はあたかも、えぇ、この先もずっと残るかどうかってことですか?あぁ、そういうのはねホント得意すっていうか余裕っしょ、と昔ながらに紙の上で、あるいは今や点滅するゼロイチの配列として物理的な肉体を超えたアーティフィシャルな永遠をひけらかしつつ、意気揚々と語りかけている、という見方はあまりに穿っているでしょうか?
わたしは聴く
アーカイヴの沈黙を
ある言葉が発せられ/記されると、それ以外ーというニゲイトされた空間や存在が同時に立ち上がる アーカイヴされる何かは必ずアーカイヴされない何かを(も)立ち上げるんだ
その境界はどこかにある、少なくともこの段落の上の段落を入力した、俺の、あの瞬間には存在したかあるいはその瞬間にその境界が作られたはすだ、無いものを記すことは出来ないからだ、にも関わらず、漸近することと超越すること以外に境界にアプローチすることはできない、(境界)点とか線というのは概念であって物理的な定量を持つ領域とは違うんだから、まさにそれこそが永遠に境界の遠さを決定づけているんだろう。だからあちらとこちらのような二分された世界は確定され得ない、つまり無い、つまり世界はやはり一つである、いや複数的にひとつの世界を成す?んだから、と言った時にニゲイトされた空間はどこで何を申すのか?と言えば逆相としての前言は強化されるだろうか?
あるいは…