20211225_池田雲樵_蘭図(筆法)_タグ文
蘭図、とあるわりに、というかあるのに蘭は描かれていない。そういうものなのだろうか?画面の左下からひょろりと右上へそれぞれの方向に伸びた3本の葉、というか草というか、すすきの葉のほそいやつみたいな、というか、とにかく余白たっぷりのこの画面。(筆法)とあるので、そこだけを伝えよう、という手本なのかもしれない、が惹かれる。
3という数はある種の完全数として古今東西語り尽くされ使われたおされているので踏み込みにくい雰囲気をも漂わせているとは思うのだが、あえて3の話をしたい。3は関係性が一気に複雑化しはじめる数だが、昔ひとりで即興演奏をやっていたころにいかに3の状態を作るか、というのを考えループサンプラーを手にとった。リアルタイムに演奏しているわたし、ちょっとずれた少し前のわたし、もうちょっとずれたもう少し前のわたしみたいな。長時間(当時最長20分くらいだっただろうか?)のループ録音・再生が可能な機材があって、それを愛用していた。これはもう感覚以外の何物でもないが、あるフレーズを伸び縮みさせたり、欠けさせたり、歪めてみたりしながら、時間の中にならべてみるとそれ自体が微細な変化をともなうループ構造をもっているわけだが、それを自分の記憶や把握する能力を超える時間の長さのループにするのを好んだ。そのループ1を聴きながらまた音を出すわけだが、それをループ2にする、当然別々の時間周期でループするので、組み合わせ方は変化する。これももう感覚以外の何物でもないが、案外人間の脳ってこの程度なら把握してしまう。言語的にというより、ぽっかり全体を「はい、わかりますよ」みたいに。そこで3だ。第三のループかと思わせておいてリアルタイムで時間のフレームを持たないわたしが加わる。ループ1っぽい音やループ2っぽい音もだすことができるし、どっちみちループ1も2も「わたし」風全開なため、何をやっても統一感が否応なくある、ので聴く人(の脳)はもうどの音がループ1、2でリアルタイムなのかを追うことに意味を感じなくなる、その果てに、もうね全部で「おと」、みたいな一つのうごく塊(よく言えば命)として聴こえてくる、かもしれない、と思っていた。ちょこちょこリアルタイムの俺はループ1や2もさらに上書きし変化させたりもするので、20分もこの行為が続けば、本人を含めだれも全体を把握することができなくなる、たった20分程度一人の人が行ったこと程度で、ですよ?それが世界の素晴らしさだと思っていたし、そこに気持ちよさがあったし、この上もなくそういう複雑な状態を好んでいたし、いまもそうです、ご覧の通り。
たぶん(筆法)として生み出された、この3本のひょろりとのびた葉とその余白による「風景」があるように響きによって生み出される景がある。そして思うんですよね、理解できることなんてほんのわずかだ、と。考えることや言葉にすることはだからって言って無効だとか無意味だとかにはならない、でもいつも思うのは、理解できないこと(で)も経験(は)できるということ。