20220117_おそらく

2022年1月17日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「おそらく」という言葉に「恐らく」という漢字をあててみた、その途端に「ほぼ間違いなくその通りだと(は思いつつもやっぱりその通りかどうか不安なんですが)・・・思います」と言うか細い声を聞いた。

「あれ、もしかして・・・おそらくさんですか?」

「おそらくさん」は前もって自己防衛しつつも、言わずにはいられない、自らの見解をリミットギリギリまで明確に表す、と同時に自分の首をあとから締めることになるかもしれない断定は避ける、ついでに自らの想像が及んでいなかった別の可能性が提示されたときに「そうとも言えますねぇ」と言う事で発言者の否定を余儀なくされる自体を免れる様に事前に配慮していることがわかる(気がする)。斜め横からやや穿てみるとそういうことになるかもしれない、でもね、他者への配慮=わたし以外の可能性を忘れていない姿勢であったりもするんだよ。

だから(もう一回言う)

「おそらくさん」は、(自らの)意見を言うのと同時にそれ自体をがっちり留保する態度も示すことで他者分の「おそらく」的スペースを残している、という離れ業をやってのけている(気がする)。会議中やたらにパワープレイをしかけ結論を大ナタのごとく振るってくるマッチョに対してしばらくのあいだ身を潜められるくらいの穴を「おそらくさん」はささっと掘ってしまう。ポリティカル・コレクトネスを乱用し多様性という言葉を誤解したままの最近多い細マッチョに対しても「おそらくさん」は穴を掘る。そして、その穴を必要とする誰かに提供しつつ「おそらくさん」自身が一種の隠れ蓑となり覆ってくれる。一過性のもの、テンポラリーではあるが、本格的なシェードだ。そう思うと「おそらくさん」は相当にコンテンポラリーな生き方をしていると思う、なんて考えていた矢先、

「おそらくさん」は唐突に問う「例えばさ、資本ってなんだろう?」と。

おそらくそれは・・・とね、薄ぼんやり以上に思っていることなんだけども、それが中心の社会に生きていて、社会はそれを中心に動いている。らしい、くらいの実感しかないままに今このときも皆が「社会」を生きている、というかそれ自体を成している(らしい)が、そんな事実がまだまだ風潮だった(と思われていた)頃に、抵抗を試みようとした最後の世代もいまやいこの世界を去ろうとしている(のだろうか?)。レジスタンス、という言葉が近代なのか前近代なのか、あるいはポストモダンにおいてもしばらくは有効だったのかは知らないが、いずれにしても今現在、その言葉には時代錯誤感がすでに蔓延していて、それは防止の対象ですらないくらい存在感が無い、抵抗するもなにも一部となって無化して久しいのだから(かな?)。そして、言ってみればそんなことは思考でしかない。だから実感がない。いま生きていく中で実感をもてることの一つはサバイバルじゃないか?と思う。世界はそもそもわからないところだし、知らない土地と複雑に思える時代に生まれ(というか意思ではないから…生み放り出され?)ていまここで生きよと言われている(んだよたぶん実際に)みたいなもんで、そんな中で急いでまとめた理想だとか目的だとかというようなものが完全であることはまーあり得ないので、それを軸に考えてみたところで「世界」が急に変わるのか、あるいは変えられるのかもわからない。なので、ともかくも「この世界」を生きるしかない。それ自体はノーチョイスなのでそういう意味で大事な力は、レジスタンスではなくて、レジリアンスなんだと思う。敵は本能寺には居ない。(なんのことだ?)サバイバルする態度と方法を研ぎ磨け。そうすることこそが、わずか数十年、長くて百年ちょいのライフスパンにおいてはアンカーのように生きられる時間を落ち着かせてくれるのだから。結局の所、どこまでいっても世界は複雑なままで、わからないものなのだ。おそらくね。それを厭世でもなく、否定でもなく、逃避でもなく、破壊でもなく、迂回でもなく、しっかりがっちり留保する。それでいいじゃないか・・・

2022年2月24日ロシア軍がウクライナへ侵攻を開始した。そして3月2日執筆現在の今も状況は好転してはいない。わたしは「おそらくさん」がレジリアンスについて、その本質はしっかりがっちり留保する態度だと思う、と語りかけたことを切実な想いで思い出している。