20220121_(括弧)

2022年1月21日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「(括弧)」を眺めていて思った。(括弧)が好きだ。

(括弧)をつけるだけで別の存在、別の時間、書かれた文字通りではない世界の可能性が立ち上がるから。複数形の世界を信じ、生き、体現しようとしているわたしにはその状態こそがまぎれもない現実だし、自分以外の世界と関わろうとするときに必要不可欠な理解だとすら思える。正直(括弧)のない世界なんて息苦しくて想像もできない。

(括弧)を駆使すると言葉・音に厚みを加えたり、響きを複雑にしてくれる(と思う)←と言った時にきっとあなたの脳内では、ほんのすこし「複雑にしてくれる」がソフトタッチになったのではないだろうか?つまり pp(ピアニッシモ化)されるというか。「複雑にしてくれると思う」とひとつづきのフレーズにした場合とは違いがある(と思う)。これ、わたしにとってはとっても重要です。というのも読む側にしてみたら何かごちゃごちゃ煩いな、となるかもしれない、けれど、わたしは生粋の志向性明瞭派の中でも、さらに意図ってのはやっぱり大事(だって意図がわからないと「何ですか?」ってなるからね)派に属するhyper-intentionist(なんて言葉はたぶん無い)ですが、同じく抽象性を重んじる余白大事系な理解も持ち合わせてるもんで、それを見事に両立する(括弧)に惹かれるんですよ。

わたしと(括弧)との付き合いは、そうですね、少なく見ても25年はありますかね。

例えば、1998年12月26日のノートを見ると

  • 芸術とはRealityをコトバで(その特有のコトバで)切り取る事である
  • 核の無化による(無《限空間》化)realityの表現

など、とあり、すでにわりと複雑なことになっている。「補足・注釈・コメンタリー」としての使い方はわりと一般的でしょう。上の98年の例で言うなら、前者の使用例はわりとコメンタリーですが特徴的なのは(括弧)なのに繰り返しを含むバリエーションによる「強調」ですね。後者は強いて言えば「数式」系、「重層」系に属する使用法かな。

もちろん世の中には(括弧)世界の現実に到達した(括弧)を表立って用いないやり方も存在します。多少憧れもします。ある意味で(括弧)を用いずに(括弧)世界を体現できるならその(括弧)性はMaxに達してる可能性があるように思えたりもする!?ので。