20220121_展示

2022年1月21日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「展示」という言葉を眺め考えていて、ふと思った。「展示」、という言葉やニュアンスには視覚が常に伴う、と。もっと言うなら、展示―exhibitionという言葉には「晒される何かを観る誰か」のコロニアルな視座を感じざるを得ない。そこに違和感を感じる。なぜなら、わたしは何かを晒すつもりもないし、晒されることもよしとはしない。物見小屋・興味棚起源史観に基づいた言説に影響を受けていることは否定しないが、これはかなりの部分実感でもある。

わたしの場合、舞台にあがり自らを開くことに関しては大いに覚悟をもって臨んできたことなのである種「自らを晒す」状態には慣れてはいるのだが、ただそれはあくまでも生きて動くものとしてであって、自分を物化し陳列するような、そんなことをしたいとは思わないし、そんなものを観たいと誰かが思うとも思わない。そもそも「自分」に物的な価値はない、と思う。かなり穿ったそして偏った物言いだとは思うが、あえて展示ということばにまつわる何かしらを掘り下げてみるために、そんな風にとりあえず言わせておいてもらおう。そもそもわたしは「自分を表現する」みたいなことに一切興味がない。物化されなかったとしても「わたし」なんてつまらないものだからだ。ただ生きて動いているときには、動いている本体よりも「動き」が主体になり得る瞬間・可能性があると思うし、それを引き出すため方法に興味があるし、理想的な希望を申せば作品やパフォーマンスがわたし以上のものであることを願っているし、当面は作品たちの1番の理解者であるだろう「わたし」でさえもよくわからないものであってもらいたい。

そういう意味でこれははっきり言える。
I never was interested in expressing myself.

そして再びの[ex](先ほどのexhibitionにもくっついていた接頭辞ですね)。
何にも増して、この[ex]がわたしの(おそらく生来の)興味とバッティングするのだ。

expressという言葉は表現と訳される。特定の意図された何かしらを「表」に現すこと。再度、穿ち偏った物言いをすると、表には表されているかもしれないが、内側はここで問題にはされていない。のではないか?なんて思う私はすでにそうとうに内側主義者なのであろう。つまり見た目が良くても美味くないものなんていうのは食いたくない派なのだ。もっと言えば見た目がいい場合に、実は美味くないんじゃないの?という可能性を常に意識する外側懐疑派だということでもある。端的に言うと、内実を問題にするタイプ、とも言える。転じて、どういう風に見えていようと意図が明確にあったうえでやったことであればそれだけが問題にされていればいいんじゃないの?派につきものの!?それでいいのか?問題は浮上する。

例えばemotionalなことの場合は何か感情的に(別の立場の人からしてみたら「勘違い」であったとしても)受け取った何かは受け取った人にとっては事実性の強い出来事なのでやはりそれがどうでも良いというのはちょっとまずい気がするし、歴史的な解釈にはこういった問題がいつもまとわりついているから、いろんなリサーチをしていても感情と事実は決して無関係ではないと思う。とサイドステップを繰り返してしまったが、ともあれ内側が一番大事、とかという言い方ではなく、理解されたいのは(少なくとも二項対立的な意味ではなく単なる比較として・・・私にとっては外側よりも)内側は大事だ、という部分だし、思考の傾向としては私は何かが内側にある場合にそれが外側がどうあるかということに影響するだろうという思考の順序をもっているという告白みたいなものだ。もしかするとこれは音楽的経験からくる実感かもしれない。同じような楽器で同じように弾いてみてもたったの一音でさえ違いがある。これは音を出す誰か・何かの内側の問題なのではないか?道具が何なのかという内側の段階や発音するのが誰(人でない場合もあるからね)、何(機械とかコンピューターとかね)、その他みたいな内側レイヤーもあり得る。あとは言葉でも言えるけど同じ言葉を聞いたとしても、何から何まで違う印象を受ける場合これは内側を問題にするしか・・・ないような気がする。と書いてみて思ったけど音とか声とかにはそもそも外装的なレイヤーが「見えない」のでやや例として機能しないくらい、わたしはそういうことに興味を偏らせているのかもしれませんね。わたしはあくまでも何かしらが体現されたものや体現するメカニズムに興味関心があるし自分もそういった興味関心+何かしらを体現するものでありたいし、そういうものを体現し宿す何かを作りたいと考えています。ね。

体現について私見を述べて考えてみます。表現という言葉をてこにしつつ。

体現されるものと表現されるもの
Things that are embodied. Things that are expressed.

embody

em+ほにゃらら、という接頭辞であるemはinとほぼ同じニュアンスを持ち、内旋する力の方向と状態を示す。(例えばempowerというの言葉があるが、これは「力づける」と訳され得ると思うが、力づけられる何かしらの内側に働く何かがあって、力づけたられた何かしらは力づけられた状態になるということだろう。)em+bodyの場合、body的な状態に内側からなることであり、生きたもの=動きのあるものになる(である)、というニュアンスと考えることができるだろう。(全くの私見)と、ここで忘れてならないのはbodyはいつかは死ぬという事実。つまりembodyには終わりもが与えられている。とすると、体現されるもの/Things that are embodied. は動いているのです。常に。止まることなく。ただし終わるまで。

express

ex+ほにゃらら、という字の連なりのexはoutとほぼ同じで、外旋する力の方向と状態を示す。(例えば手短にexpandという言葉があるが、すでに「延ばす」という意味をもつpand〈似た言葉で pandemic がありますね〉がex化されているので、これは単なる「拡大」ってだけでなくて、外側へ!というニュアンスをきっちり示したものということでしょう。)ex+pressの場合、pressっていうのがプレス=押す、なので外側へ!押す、ということです。この場合に押されるのは何か?内側じゃないの?ということも言えるのですが、実はそうとも限らない。何を外側へ!押すのか、は言葉そのものには明示されてはいないのです。

それよりもわたしには大事だと思われるのはこのpressという言葉に漂う一回性。(だって押す、と押し続けるは別の言葉ですよね。)つまり、表現されるもの/Things that are expressed. は外側に押し出された状態で止まっているのです。固定的な感じで。(たぶん)

ここからexhibitionのexが外側だとして、hibitionってのは何だ?と考えてみると、hibitなんですが。住みつくという意味のhabitみたいですよね。同じあたりの字源のようですが、hibitはhabereからきていて「持つ」「保つ」という固定的なニュアンスがあるそうですんで、exhibitというのは外側に保つ感じ、やっぱり晒されてるんですね。と思っちゃう。

表現する者たちが展示する。
Ones that express exhibit.

んだとすると・・・

体現する者たちは何をするのでしょうか?
Onse that embody do what?

と、問うてからしばらくして、2月28日、わたしはひとつの可能性に考え至った。

体現者はインプロバイズするんじゃないだろうか?
Ones that embodies improvise?

improvise。AMERICAN HERITEGE DICTIONARYを(勝手に私訳し)引用すると、1.準備無し(without preparation)で、生み出す(invent)、作曲する(compose)、語る(recite)。2. 利用可能な素材(available material)で作り(make)だす、提供(provide)する。例:(冷蔵庫にあるもので)適当に簡単な夕食をこしらえる。語源をたどればラテン語のimprovisus、 unforeseen=予期しない、など。ざっくり分解してみるならim(あるいはin)+providereとなる。

imというのは漢字で言うなら「無、不、非」つまり「ではない」というNot系の接頭辞。つまりimpossibleがimなpossibleで不・可能みたいな。proviseという語幹と同じ言葉は辞書の中には見当たらないがprovidereというラテン語は英語でいうprovide。提供する。その名詞形がprovisionで準備、備える、食糧なんていう準備オーライなニュアンスを持つ言葉だ。不・準備、非・食糧だとなんだかダメなやつに思えるが。provisionは規定なんていう意味も兼ね備えているので、無・規定と言うとリミッターを超えていきそうな感じもしないではない。と、断った上でなぜ体現者は即興するのか?という点だが、そもそも体現者は体現しちゃってるので、何かを表そうという意図をもって何かをするんではなく、何かをした結果なんだか勝手に現れちゃうのだ。improviseした結果がimprovisationだとしたら。彼女/彼らは残そうとしておらず、万が一残った何かがあったとしても、残す意図ありきのアーカイヴ性を持って生まれたものではなくて、やはり体現され死んでいく、ただただ現状としてあれこれの果ての結果ー特にそのことを狙ったわけでもなくー残っちゃったものなのかもしれない。

注:ちなみにperformanceって日本語でなんて言うの?と専門家に聞いてみたところ、「パフォーマンスかな?直訳ないんだよね」というリプライ。専門用語としては「繰り返されている行為、twice behaved behavior(→ritual)、レパートリー」つまりアートでよく含意したつもりになっている「一回性」とか「ライブ性」はもともとは言外の意なのだ。そういえば過去に唯一性を求めていた頃の先輩方はアクション?ハプニング?と呼んだりしていた。アートパフォーマンスは売り買い可能な繰り返される行為?なのか?(よくわからないけど)そういう意味ではパフォーマンスに含まれると思っていた意味的領域から「おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)」は外れるのではないか?と考え出している。

そんなわけで!?今後、exhibitionとか展示という言葉に対する違和感を解消するために・・・わたしの責任において行う企画では【exhibition】ではなくて【emなんとか(なんとか、は毎回ちがったりする)】と呼ぶことにします。それで、日本語で言うとしたら展が体かな?じゃあ、個展じゃなくて個体ですね・・・。いや、もう個とかすらいらない気がしてきた、個体って言葉紛らわしいし。。。けど責任の所在は必要なので・・・おそらくこれは体(mamoru責)だ、でいいでしょうか?(ちなみにグループ展はグループ・・・展のままだね俺が主催じゃないから。)きっと近々、わたしから『こんど久々に東京のギャラリーで体(mamoru責)をします。よかったらきてください!』という文章が届くかもしれませんが、つまるところはこういうことですんでよろしくお願いします。

ついでに、改めて、わたしは[ex]と決別し[em]な体現者であることをここに宣言し、今後mamoruではなくてemamoruになろうかと思います。あ、さらについでにemamoruの場合 em+amor(u)となるのでなぞに愛が体現された感じもして良いよねってことでこの際「u」を取った形にして、emamor(FKA15–1mamoru)というアーティスト名に変更したいと思います。仮に今回のプロジェクトで考えるなら・・・おそらくこれは展示ではない(としたら、体[emamor(FKA mamoru)]責だ)ということになりますが、これはさすがにちょっと行き過ぎてなんのことだかわけわからない?気がしてきましたぁ、というくらいにして、この件はとりあえずがっちり留保しお開きとしたいと思います。

  • 15–1 FKA

    formerly known as の略。以前は_として知られた、的な。