20220206_phase(0以前から)2(から3へ)aka 「プレイヤー」について

Flageyからのそれなりに長い坂道を上る、頬にあたる空気が冬のそれだ、とは言えそこまでの寒さではまだない、なんて感じながら『この先に確実に(と書いてはみたが、今のような状況下18–1で本当に確実なんてものが言えるのだろうか?と考えるなら、そもそも確実な時間はないわけだが・・・なんとかして?)生きられる(だろう)、今・ここからで言うと(そしてかなり正確には)「まだ生きられていない時間」に自分がい(きてい)る(だろう)とき、その時にこの考えがわたしのなかに存在し思考が継続しているかはわからないが、3月あたりにはともかくこのプロジェクト自体を振り返る予定にしている、というよりphase(0以前から)3(からどこへ?)を設けることで、こんな風に全行程中、何かが進んでいくなかで、すでに、そして常に、振り返り記すことを意識していくところから出来上がるはずの最後のテキストには「プレイヤー」18–2達のことを含める必要があるんじゃないか、と思ったんだ。そして、その時、俺は、たぶんこの11月に書いている文章を全部青色に変えたりして、また一番初めにphase0(から1)以前に書い文章を使ってやったみたいに18–33月の俺が解体することを予感していたりもする。(そうすることでさ、ある種の「和声法」をなぞる事になるから、コンポジションとして、まとまってくる気がするんだよね。っていうのがやや手癖っぽくはあるからどうなるだろうなー。あ、そうかこのコメント的な文章がやや最初のものとちがうレイヤーに見えなくはないよね。うん。3月の俺どうする?)

  • 18–1 今のような状況下

    執筆時にヨーロッパ全域、特にオーストリア、ドイツ、オランダあたりではロックダウンがはじまりつつあって、ここベルギーもそのうちくるのかなーどうかなーという様な状況である

  • 18–2 プレイヤー

    「プレイヤー」はプレイするんであって、ワークするんではない、と思いたい。例えばサッカープレイヤーはいるけどサッカーワーカーは・・・いない(現実にはいるだろうけおど。今日のおれ、サッカーワーカーだったな。とか。)様に。

  • 18–3 一番初めにphase0(から1)以前に書い文章を使ってやったみたいに

そう言えば、たった一度だけ全ての「プレイヤー」18–4達が集ったミーティングがあった。でさ、途中くらいで思ったんだ、あーこのミーティングをするためにもしかしたらこのプロジェクトがあったのかもしれないって。それと同時に俺としたことが不覚にも録音ボタンを押し忘れていて「あーしまったー」「どうしたんですか?」「いや録音忘れてて」「あ、俺録音してるよ」「え!あとで共有してほしい!」そう一人の「プレイヤー」18–5が録音してくれてたんだよね。いや良かった良かった。でさ、そのミーティングなんだけど、どういうわけか、というかそりゃそうなんだけど、結局のところほぼ何も決まらないままで終わったんだ。と言ってもさ、よくある集まる事だけが目的みたいな会議で生産性のないやつなんかじゃないんだ、むしろ、そう、概念的な会話にどんどんと舵がとられていって、話が具体性を欠いていくんだけど、当然何の話だかもわからないわけだから結論なんて無いし、さかのぼってこのミーティングで何を決めるんだかも関係なくなってくる、ただ「プレイヤー」18–6の誰かが発した言葉に言語ロジカル的ではないユニークなレスポンスも含めたやりとりが時間の中に作られていってて、あー良いなこれ、みたいなね。

  • 18–4 プレイヤー

    しつこいが彼らは「プレイヤー」であってワーカーではない。これは重要だ。プレイするにはルールみたいなものコンセンサス的なものがいるだろう。意図されてはいるが、目的性なんてのはそこまで無いようなもの。それが遊びだと思う。バスケでいうとあの高さに設置したバスケットに球いれたからって何か意味があるわけじゃない、けどそれで点数はいること。という。その結果、的に得るものがあろうが、生産するためにプレイするわけじゃない。

  • 18–5 プレイヤー

    偶然でもないけど、最近読んだ本なんですけどね、Byung–Chul Hanという哲学者のThe Disappearance of Rituals (Polity, 2020)という著書のなかに「プレイヤー」Playerにまつわる言及があってとてもおもしろく読みました。

    一節を引用しますと

    オリジナル
    Today, to live means to produce. Everything moves from the sphere of play to that of production. We are all workers, and no longer players. Play itself is watered down, it becomes a leisure-time activity...中略...The sacred seriousness of play has entirely given way to the profane seriousness of work and production....

    完全なる私訳
    今日、生きるとは生産することを指す。全てがプレイする世界から生産する世界へと移行してしまった。私たちは皆ワーカーであってプレイヤーではなくなってしまった。プレイ自体は希薄にされ、余暇の過ごし方に成り下がった・・・プレイの神聖な真剣さ(seriousness)はワークと生産の俗っぽいただの過酷(seriousness)さに道を譲らされ完全に取って代わられてしまったのだ・・・

    などなど。全ての「プレイヤー」におすすめの良書です。

  • 18–6 プレイヤー

    またプレイヤーのことですけどね、例えば2021年12月15日にプレイヤー間のエール交換がメールを介してなされていた。こんな無目的な遊びのようなことをやっている他のプレイヤーのひたむきな遊ぼうという努力のためにエキスパート達がお互いに奮い立たせている。(と思った)いやそうではない、無目的ではなくて、ただ結論がない、あるいは要らないんだ。でも、ぎゃんばる(れ)!と。

(ここに自分が好きな部分の抜粋・書き起こしを載せると良いかもしれないなー)

そんな会話、だったり、言葉の交わしあい、あるいは誰かの言葉を聴く時間、を作れたことが嬉しいことだったんだよ。それで良い、というかさ。』なんてことを振り返って考えていた、まさにその日、2021年11月25日に、このWebはアップされていた!ことを今日、2022年2月6日に、私は知ったのだ、が、このあとに続く文章はphase(0以前から)0(から1へ)においてアップされたものとほぼ変わりはない、というか文章自体は変わらない。のだが____などを行いよりグルーヴするようにしたり、_____などを行い_____みたいなことをやってみたわけだが・・・振り返ってみると【ここからもとの〈2021年ではじまるグルーブ体と普通体のテキスト〉が来る→念の為テキスト本文18–7貼りつけておきます、コメントリンクはこの場では割愛します】2021年8月5日。〈『おそらくこれは展示ではない。』(仮)〉という一文を、タイトルの様なものとして、テキストファイルの左上の隅っこに打ち込んだ時、プロジェクト胎動のきっかけとなったメールを受け取ってから286日が経っていた。そこからさらに2ヶ月ほどたった353日目の今日、10月11日、今まさに読まれているこの文章が綴られつつある。(と今まさに綴られた)、という書き出しが良いかもしれないと思いはじめたのは昨日か一昨日あたりのことだが、〈このプロジェクトは3ヶ月超の時間を要する。〉とした8月5日採用の表明(たねまきアクア08 p31に全文掲載)と同様に事実ベースでジャーナル風の出だしに通じる点が、うん、悪くない。

  • 18–7 テキスト本文

    2021年8月5日以下全文。

この文章は今回のプロジェクトにおける〈強いて言うならば、ひとつの体験としてはなかなか把握しきれないだろう時間のなかにつくられていくストラクチャー、期間中に生まれる様々な響き〉(と言っても意味論的な意味での響きだったり振る舞い・行為といった意味での響きだが)〈とその重なりや残響によってうみだされるコンポジション〉を文字通り(文字によって)体現し雰囲気が伝わる何かしらとなるべくして書かれはじめたのだが、それはそうとして、果たしてコミュニケートしていますか?

やや具体的に言おうとしてみようとするなら、スケジュール(という名のスコア)が発表されるだろう、12月、1月、2月、3月を別々のphaseとして区切られ(と言いつつ、0から1の間に無数に存在し知り尽くすことなど出来ない数たちのように、恐らくずっと何かが連綿とあるのだろう、と思うが)、それぞれのphaseの出発点(つまり全体的に見れば通過ポイント)を設定し、私の探究と制作活動、これまでに培ってきたタクティクスを横断しながら紐解いてみるつもりであることも予告されるのだが、〈そう、譜面はある。〉し、それは「地図」のようなもので、おぼろげに「ルート」も描かれているかもしれない、〈もちろんプレイヤーもいる。アドリブが生まれ、予期せぬ飛び入りもあるかもしれない。コンポジションは自身を拡張したり、越えるための手がかりをも抱いている。そうであってほしい。有観客だろうが、ブラウズする人だけになろうが、そこに人が行きかい、厳密に言ってフリーではないがジャズではあるかもしれないそれを、おそらくほんの一部だけを聞く、あるいは目撃し、何かしらのタイミングとチャンネルがあえば体験する。〉のかなぁ、と想像はしているんだけど、果たして、相変わらず、それが何だ?と問われても、あぁ、まさにそのこと(だけ?)を考えているんですよねぇ、としか言えない気がしている、この先も、割とずっと。

そう言えば、このプロジェクトが胎動を始めた頃、コロナをきっかけにしてこれまでの活動を振り返ることに着手したわたしは、移動と整理の繰り返しを経た上でしばらくの間古い平屋の押入れに押し込められていたボロボロのダンボール箱、を引きずり出しながら、直接箱に油性マジックで書き込まれすぎてもう意味をなさなくなっていた中身のメモを読解しようとしたものの、結局のところは何だかわからないものになりかけているからあけて確認するしかなくなってしまったものたちを引っ張り出し、つまみ出しては、これなんでとってるんだっけ?とばかりに首をひねり、あーもしかしてあれかな!と横道にそれ過ぎはじめる、とてつもない長い道のりを感じながら、そもそもこの果てしない道の先なんてものがあるのか?先が無いなら「道のり」かどうかも知り得ないではないか?という、一段深まった風な謎に包まれたりしていて、それとは少し別のきっかけで意を決して、から随分とたった2021年の9月某日、過去の活動であれこれのハードディスクに分けられていたものを「全データ」集合!的にハードディスクに入れ直そうと思ったら、今時のコンパクトかつカラフルな5TBのハード2つに可愛らしく収まった「全データちゃん」みたいな10TB以下な私の20年に、なんだろなという可笑しみ、たったこれっぽっちなの?という一抹のやるせなさと、まーこんなもんか!というそこはかとない清々しさが、たぶん、いりまじった妙な感じに正直今も軽くうろたえている。

〈今度のコンポジションのマテリアルにはWeb、ハイパーテキスト、展示空間、イヴェント、パフォーマンス、その他に具体的なテーマとしてはアーカイヴ、それに関連して特に自身のこれまでの活動そのものをマテリアルとしたものにしたいと考えている。〉ことを体現するために早速こうして8月5日に書き送ったメールの本文(たねまきアクア08 p31掲載」)を引用、というよりは、思考を進め、上書きしている風に見えないかな?という考えのもと新たなテキストとして書いているわけだが、このプロジェクトに登場する諸々っていうのは〈それぞれは特段新しいマテリアルでもないだろう。ただ、私にとってのチャレンジは果たしてこれらをどうコンポーズし、自分を含むプレイヤー達に伝達するものとしていかに記述し得るのか、という点。そしてそれはほぼ同時にパブリックにむけられる。それはパフォーマンスなのだろうか?そんなパフォーマンスは可能なのか?という点。〉だろうなと変わらずに思っている、つまりはじめに立てた「おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)」という問いは、今やバリバリのvalidなのだ。(冬の風が寒い)

補足

phase0(から1)のためのテキストの締め切りは10月15日、357だったはずなんだが、Webの特性を活かし、今(10月18日、360)現在も最後の言葉は打ち込まれることなく、なんとなく最後の文章っていうのがあるとすれば、「このプロジェクトの開始(されていたこと)を告げることにする」くらいのことになるんではないだろうか?(と思っている)

Last updated 2021.11.25.