20220301_phase(0以前から)3(からどこへ?)

何だ?22–1、と2022年2月26日現在のわたしは考えるにいたったわけだが、そう言えばちょうど3ヶ月ほど前・・・Flageyからの 〈中略〉今日、2022年2月6日に、私は知ったのだ、が、このあとに続く文章はphase(0以前から)0(から1へ)においてアップされたものとほぼ変わりはない、というか文章自体は変わらない。〈中略〉22–2だが・・・振り返ってみると、2021年8月5日。〈以下省略〉22–3

  • 22–1 何だ?

    2022年1月21日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「何だ?」という言葉を眺め考えていて、ふと思った。こんなにシンプルに[言い得ない何か]を体現した「(日本語の)言葉」があるだろうか?わたしには「何だ?」という文字の連なりと記号は素晴らしいフォーミュラ(数式)に思える。

    そもそも言語自体が[言い得ない何か]を共有するという、よく考えてみれば矛盾したような動機を、いや、むしろ無理難題を解決する方法への希求こそを、起源として生まれた、と考えることができるだろう(か?)。仕草とか簡単な音とか合図的な何かでコミュニケートしていたであろう人類(など)が、何かをそれ以上に伝えたい、あるいは理解されたい欲求か必要か動機があったのだ、と仮定させてください、とりあえず、いまだけで良いので。

    「うぅうううう、えぇえええええっと。(言葉以前の世界を言葉では当然表せないとは思いつつもそれを試みています)あぁあああああ~」という何か(=呼びかけ/call)が発せられた(たぶん)。そしてそれを聞いた誰か(がいなければ言語ではないとわたしは思う)が「うぅううううう、えぇええええっと、あぁあああああ~」という何かの狭間に感じたそれ(=応答/レスポンス)こそ「何だ?」の原型だったのではないか、と想像する、そして紛れもなく疑問形であっただろうこの「何だ?」が発せられた時に言語は産声をあげた。(とわたしは思う)。言語はきっと伝達欲求の音的な発露に次ぐコミュニケーションしたのかディスコミュニケーションに終わったのかわからないという不確定な状態から出発したはずだ。そしてこのコールからのレスポンス、というか原初的な「何だ?」の絡まり合いといったら、あぁ、これこそがリアリティ。その美しさといったらない。「願い」は叶わぬことで「願い」であり続ける、的な。始まりに「断絶」があった(かもしれない)、的な。あまりに切ない、妄想に近い? 言語的コミュニケーションの起源に関する想像を前提に、仮に、したとすると、発せられる言葉自体には意味がない=理解できない、としても、なんと、経験はできる(少なくとも音的に)。わからないことでも経験は出来る・・・聴き・想像することにこそ、あの「断絶」(の可能性をすくなくとも大いに含むやりとり)が人類にとっては壮大な旅の始まりにすぎなかった、と言える可能性があるようにおもう。

    わたし(だけではないけど)は、よく英語で、とか日本語でとか、字源的なことや語源的なことを引き合いに何かの考えをすすめることがよくある。多言語による考察は、何かを言い表そう、その意味を捉えようとしたときに、これまで人類がいかに「それ」の周囲にある断絶を乗り越えて漸近しようとしてきたのか、という足跡をたどるような行為かもしれない。または、何かイメージしている色があったとして、10色ペンだったものを15色とか30色にするみたいなものだと考えればいい(のか?)。その勢いで100色、いや1万色?くらいあれば「橙グリーングレー気味の赤」みたいな謎な色のペンがあるかもしれないし、さすがに混ぜないと無理か・・・という複雑怪奇かつ出番のめったになさそうな色でも、すでに細分化された色を混交させることで近づくことができるかもしれない(あるいはそういう類の幻想を持つことはできる・・・)。そういった努力を繰り返しながら、旅は続く、あともう少しで「コミュニケート」できるんではないか?という淡い期待に動かされて、より細かく・詳細に・そして創造的に言葉を繰り出していくとき、ニッチな言葉や複数言語を織り交ぜた造語?みたいなものが生まれてくる(だろうか?)。細分化され専門化された色合いや意図やニュアンスはより正確・明確・鋭角になる。と、同時におそらく一般的に共有されている「こういうことだよね」という大きな場所からはどんどん離れていく道を、さらに逸れていき「ついてきてしまった」誰かをどこかへしっかり導くよりもむしろより複雑な混乱へと放り出すことになる小道・・・へと誘いかねない、といった結果を招くことに最適化されていき、その果てしない旅路の先にきっと「おかえり」と言って、にこやかに再び迎えてくれるのが、あのはじまりの「何だ?」なのかもしれない

  • 22–2 〈中略〉

    のだが____などを行いよりグルーヴするようにしたり、_____などを行い_____みたいなことをやってみたわけ

  • 22–3 〈以下省略〉

    〈『おそらくこれは展示ではない。』(仮)〉という一文を、タイトルの様なものとして、テキストファイルの左上の隅っこに打ち込んだ時、プロジェクト胎動のきっかけとなったメールを受け取ってから286日が経っていた。そこからさらに2ヶ月ほどたった353日目の今日、10月11日、今まさに読まれているこの文章が綴られつつある。(と今まさに綴られた)、という書き出しが良いかもしれないと思いはじめたのは昨日か一昨日あたりのことだが、〈このプロジェクトは3ヶ月超の時間を要する。〉とした8月5日採用の表明(たねまきアクア08 p31に全文掲載)と同様に事実ベースでジャーナル風の出だしに通じる点が、うん、悪くない。

    この文章は今回のプロジェクトにおける〈強いて言うならば、ひとつの体験としてはなかなか把握しきれないだろう時間のなかにつくられていくストラクチャー、期間中に生まれる様々な響き〉(と言っても意味論的な意味での響きだったり振る舞い・行為といった意味での響きだが)〈とその重なりや残響によってうみだされるコンポジション〉を文字通り(文字によって)体現し雰囲気が伝わる何かしらとなるべくして書かれはじめたのだが、それはそうとして、果たしてコミュニケートしていますか?

    やや具体的に言おうとしてみようとするなら、スケジュール(という名のスコア)が発表されるだろう、12月、1月、2月、3月を別々のphaseとして区切られ(と言いつつ、0から1の間に無数に存在し知り尽くすことなど出来ない数たちのように、恐らくずっと何かが連綿とあるのだろう、と思うが)、それぞれのphaseの出発点(つまり全体的に見れば通過ポイント)を設定し、私の探究と制作活動、これまでに培ってきたタクティクスを横断しながら紐解いてみるつもりであることも予告されるのだが、〈そう、譜面はある。〉し、それは「地図」のようなもので、おぼろげに「ルート」も描かれているかもしれない、〈もちろんプレイヤーもいる。アドリブが生まれ、予期せぬ飛び入りもあるかもしれない。コンポジションは自身を拡張したり、越えるための手がかりをも抱いている。そうであってほしい。有観客だろうが、ブラウズする人だけになろうが、そこに人が行きかい、厳密に言ってフリーではないがジャズではあるかもしれないそれを、おそらくほんの一部だけを聞く、あるいは目撃し、何かしらのタイミングとチャンネルがあえば体験する。〉のかなぁ、と想像はしているんだけど、果たして、相変わらず、それが何だ?と問われても、あぁ、まさにそのこと(だけ?)を考えているんですよねぇ、としか言えない気がしている、この先も、割とずっと。

    そう言えば、このプロジェクトが胎動を始めた頃、コロナをきっかけにしてこれまでの活動を振り返ることに着手したわたしは、移動と整理の繰り返しを経た上でしばらくの間古い平屋の押入れに押し込められていたボロボロのダンボール箱、を引きずり出しながら、直接箱に油性マジックで書き込まれすぎてもう意味をなさなくなっていた中身のメモを読解しようとしたものの、結局のところは何だかわからないものになりかけているからあけて確認するしかなくなってしまったものたちを引っ張り出し、つまみ出しては、これなんでとってるんだっけ?とばかりに首をひねり、あーもしかしてあれかな!と横道にそれ過ぎはじめる、とてつもない長い道のりを感じながら、そもそもこの果てしない道の先なんてものがあるのか?先が無いなら「道のり」かどうかも知り得ないではないか?という、一段深まった風な謎に包まれたりしていて、それとは少し別のきっかけで意を決して、から随分とたった2021年の9月某日、過去の活動であれこれのハードディスクに分けられていたものを「全データ」集合!的にハードディスクに入れ直そうと思ったら、今時のコンパクトかつカラフルな5TBのハード2つに可愛らしく収まった「全データちゃん」みたいな10TB以下な私の20年に、なんだろなという可笑しみ、たったこれっぽっちなの?という一抹のやるせなさと、まーこんなもんか!というそこはかとない清々しさが、たぶん、いりまじった妙な感じに正直今も軽くうろたえている。

    〈今度のコンポジションのマテリアルにはWeb、ハイパーテキスト、展示空間、イヴェント、パフォーマンス、その他に具体的なテーマとしてはアーカイヴ、それに関連して特に自身のこれまでの活動そのものをマテリアルとしたものにしたいと考えている。〉ことを体現するために早速こうして8月5日に書き送ったメールの本文(たねまきアクア08 p31掲載」)を引用、というよりは、思考を進め、上書きしている風に見えないかな?という考えのもと新たなテキストとして書いているわけだが、このプロジェクトに登場する諸々っていうのは〈それぞれは特段新しいマテリアルでもないだろう。ただ、私にとってのチャレンジは果たしてこれらをどうコンポーズし、自分を含むプレイヤー達に伝達するものとしていかに記述し得るのか、という点。そしてそれはほぼ同時にパブリックにむけられる。それはパフォーマンスなのだろうか?そんなパフォーマンスは可能なのか?という点。〉だろうなと変わらずに思っている、つまりはじめに立てた「おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)」という問いは、今やバリバリのvalidなのだ。(冬の風が寒い)

    補足
    phase0(から1)のためのテキストの締め切りは10月15日、357だったはずなんだが、Webの特性を活かし、今(10月18日、360)現在も最後の言葉は打ち込まれることなく、なんとなく最後の文章っていうのがあるとすれば、「このプロジェクトの開始(されていたこと)を告げることにする」くらいのことになるんではないだろうか?(と思っている)