展覧会情報

2023年のキャンパス移転に向け、京都市立芸術大学(京都芸大)では、本学独自の「知と創造のありか」を探求し、教育・研究・創造の連携を図るための議論を進めています。京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAでは、移転後の大学の活動を念頭に置いたプログラムの一つとして、本学芸術資料館が有する芸術資料を新たな視点から調査・研究・活用することを目指した実験的な展覧会に取り組んできました。それらの展覧会で試みてきた芸術資料の「活用」に共通するのは、資料が収蔵されてから現在に至るまでの、収蔵品の背景にある/あった物事を推察し、そこから新たな語りのあり方を探ろうとする姿勢です。

2021年度は、想像を喚起する言葉やイメージ、そして歴史の中に埋もれてしまった小さな出来事に意識を向けて、全感覚を傾けそれを聴き、探究するアーティストのmamoruと協働し、〔アーカイヴ〕の声を聴き、考察することを試みます。

3ヶ月にわたって続くこのプロジェクトは、芸術資料館収蔵品活用展「第十門第四類」から始まります。「第十門第四類」とは、明治期から続く図書台帳の「第十門」(粉本類)の「第四類」として分類された写生用手本画を指します。学校の創立当初、教材として活躍したこれらの手本画は、教育方針の変化とともに実用されることが少なくなり、第二次世界大戦後の昭和26年の再分類時には図書台帳から「割愛」されます。やがて昭和57年に本学所蔵の芸術資料の再整理が始まると、これら手本画を含む非現用資料も博物館資料として登録されることになりました。また学芸員が配置されることで、古くから保管されてきた資料のうちのいくつかは歴史的資料として研究対象となり、その価値、役割を変化させています。「第十門第四類」では、これら資料にまつわるエピソードを、mamoruが本プロジェクトのために制作した〈思索の地図〉にある、〔歴史〕を〔記述〕しようとするために〔アーカイヴ〕を〔聴く〕という行為のある一つの形だと捉え、資料とその保存の歴史に着目します。

続いて実施される、mamoru「おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)」では、展覧会場と特設ウェブサイトの2箇所で資料に誘発される「思索」の視覚化を試みます。展覧会場では「第十門第四類」を引き継ぐ形で会場にmamoruの「アーティスティック・リサーチ」の〔アーカイヴ〕が入り込み、特設ウェブサイトではハイパーリンクテキストを主体にWEBのフォーマットならではの手法で連鎖的に、会期を3つに分けたphaseごとにそのビジュアルを変化させていきます。これは、資料を用いた新たな語りの可能性を探求しようとする思索の有様が視覚化された、絶えず動き続ける「何か」であり、@KCUAの展示空間とウェブサイトとの二つの場を舞台として上演されるパフォーマンスであり、さらにパンデミック以降に起こった展覧会やアーティストのリサーチのあり方の変化に端を発する、実際の展示室およびオンラインにおける展覧会の「オルタナティブ」の形の探究でもあります。物質的な資料で構成される展示空間と、非物質的な資料で構成されるウェブサイトという二つの「何か」は、互いに作用したり、離れたりしながらも常に変容しながら新たな言説(あるいは設問?)を展開させます。

mamoru「おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)」
2022年1月4日(火)–3月21日(月・祝)
(2021年12月11日(土)–12月26日(日)は「phase0」期間とする)

(下記展覧会を引き継ぐ形で展開)

京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品活用展「第十門第四類」
2021年12月11日(土)–12月26日(日)
  • 京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA
    WebsiteGoogleMap
  • 開館時間:11:00–19:00
  • 休館日:月曜日(1/10(月・祝)、3/21(月・祝)は開館、翌平日を休館)
  • 入場無料
  • 企画:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA
  • 主催:京都市立芸術大学
  • 助成:公益財団法人野村財団
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1977年大阪生まれ。2001年ニューヨーク市立大学音楽学部卒業、2016年ハーグ王立芸術アカデミー/王立音楽院・大学院マスター・アーティステック・リサーチ終了。平成27年度文化庁新進芸術家海外研修制度研修員。主な展示に「第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル」」(東京都写真美術館、東京、2018)、「他人の時間」(東京都現代美術館、東京、2015/Queensland Art Gallery、ブリスベン、2016)、「MEDIA ART/KITCHEN, SENSORIUM」 (アヤラ美術館、マニラ、2013)、「虹の彼方 こことどこかをつなぐ、アーティストたちの遊飛行」(府中市美術館、東京、2012)、「再考現学 / Re-Modernologio」(青森国際芸術センター、青森、2011)など。

www.afewnotes.com

〔アーカイヴ〕の声を聴き、考察すること という命題を自分に立てた。そうするうちに自ずと、何かしら具体的なアーカイヴ(例えば京都市立芸術大学の収蔵品のようなもの)というよりもアーカイヴという考え方やそうすることのモチベーション、あるいはアーカイヴすることというのは何なのか?アーカイヴされ得るものとは何か?などといった思索の迷宮へと(早々に)入り込んでいった。

注の補足

—20211021の思索より—

アーカイヴという言葉に紐づける?

On Archives and archiving, disappearing and being ephemeral*

エフェメラル*であることは必ずしも消えることを前提としてはいない。

アーカイヴする行為が何かを残す試み、というよりも語源的にはアーキテクトとかそういARCHなんちゃらで「家」的なニュアンスとかが絡むことを考えると風が吹いて何かしらがころがって自然的に「建つ」家なんてものはないわけだから、意図があって残すっていうのは低く見積もっても方向性はあってるだろうし、なんなら設計図もあるし、少なくともその種みたいなものが生まれてこれる土壌は担保しようということはあるはすだ、とは思いつつその対象は放っておけば消えて無くなることや(これも自然的にというより対抗意図的に?という懸念を込めて)散逸して意味を喪失してしまう可能性が前提になっているのかもしれないから、生まれ得た(る)知の可能性を確保しておこうとしているとも言えるし、知というのを「(権)力」と置き換えると、実際に人類がやってきたこととアーカイヴの説明を現実に則した形で補完するものにはなると思うが、要はエビデンスだ、猫も杓子も!?エビデンス。(権力をもってるやつが作ったものがそいつらの行為の正当性を確保しうるのか?というそもそもの問いはここではおいておく。)

目に見える、読むことができる、ある程度、その「(オリジナルの)まま」風の装いをもった、疑われることの(少)ないやつら、はあたかも、えぇ、この先もずっと残るかどうかってことですか?あぁ、そういうのはねホント得意すっていうか余裕っしょ、と昔ながらに紙の上で、あるいは今や点滅するゼロイチの配列として物理的な肉体を超えたアーティフィシャルな永遠をひけらかしつつ、意気揚々と語りかけている、という見方はあまりに穿っているでしょうか?

わたしは聴く
アーカイヴの沈黙を

ある言葉が発せられ/記されると、それ以外ーというニゲイトされた空間や存在が同時に立ち上がる アーカイヴされる何かは必ずアーカイヴされない何かを(も)立ち上げるんだ

その境界はどこかにある、少なくともこの段落の上の段落を入力した、俺の、あの瞬間には存在したかあるいはその瞬間にその境界が作られたはすだ、無いものを記すことは出来ないからだ、にも関わらず、漸近することと超越すること以外に境界にアプローチすることはできない、(境界)点とか線というのは概念であって物理的な定量を持つ領域とは違うんだから、まさにそれこそが永遠に境界の遠さを決定づけているんだろう。だからあちらとこちらのような二分された世界は確定され得ない、つまり無い、つまり世界はやはり一つである、いや複数的にひとつの世界を成す?んだから、と言った時にニゲイトされた空間はどこで何を申すのか?と言えば逆相としての前言は強化されるだろうか?

あるいは…

*disappearing and being ephemeral:
inspired by this sentence "performance does not disappear thoughits remains are immaterial"
Rebecca Shneider(2001), Performance Remains, Performance Research, 6:2, 100-108
*エフェメラル:
はかない何か、を言い表す語。字義的にも消えることは前提ではない、と思う。(状態の変化は織り込まれているだろうか?)「ある瞬間」に最も存在する、という状態のもの、あるいはそういう印象を与える何かともいえるだろうか?
蛇足かもしれないがわたしは文字にもそういうモードがあると思う。例えば小文字と大文字。アルファベットのね。
ご存じ、って知らんけど、の通りわたしは活動の超初期から自らの活動名をmamoruというオール小文字のスペルにして(数々の面倒な誤植ややり取りをあちこち国際的に繰り広げてきた、というのはいいとして)20年来やってきたんですけどね、それは意思の表明でもあったし、感覚の問題でもあった。大文字ってなんか偉そうだし、名前の最初は大文字にするもんだ、みたいな大・大前提というような規定に対して疑問を持つことが大事だとも思っているし(今どきはフェミニストの方達が小文字推進してて、仲間が増えたみたいな気になってたり、自らの行為が理論化されたみたいで嬉しかったりしてます)。なんとなくMamoruって画的にも中途半端じゃない?Mamoru Okuno(あ、これ俺の名字ってやつ。オフィシャルには初出かな?)ってのはなんかしっくり画的には来るんだけど、自分のことをOkunoの誰か…っていう風に実感したりアイデンティファイしたことはこれまで一度もないから・・・なんかねー名字いらないかもって思ったんですよ。そうするとMamoruだけが残るでしょ?で画的な問題。そこにall sorts of other thingsが絡まりあって、mamoruが生まれた。そう、この時の俺は・・・その後に中国語世界では奥野翼<つばさって書いてまもるなんですよ。それもややこしい一因。完全当て字だからね>って書かれる問題から「馬寞路」という表記が生みだすことになる事とか、英語圏でも常にラストネームないとなんか変だよって言われる問題(これはMadonnaだってラストネーム使ってない、という強烈な先例を出すことによって笑いとともにだいたいは解決してきた)などが発生することは知る由もない。

ん、何の話でしたかね?

はかなさ、か。

そう、小文字のほうがなんとなく謙虚で、生まれ死に去っていく(消えるかどうかはやはりここでも曖昧である)といういのちの有り様を反映しているように、わたしは、思うんです。まー文字ってそもそもしつこい感じするけど、それはそれで知ってるよ、でも少なくとも大文字のように大声で主張したい感はないのかなって思うんですよね。

はかなさ、はわたしにとって、ある種、何かのクオリティを高める意識をもたらしているように思う。
mamoru〈思索の地図〉

—2021.11.11にふと浮かんだ疑問から書き始めたメモより—

言葉そのものは果たして資料と成り得るのだろうか?

これまでの活動にまつわる行為やそこから生まれでてきた何か、特に音や音的なものは空気を振動させ、音源みたいなものやそれを作るための試行錯誤「test_」とか「_test」というファイル名が含まれる無数の記述は世界の総データ量をほんの10テラバイトほど秘かに押し上げ、大体の場合においておそらくはエントロピーも増大はさせたものの、基本的にその実体は現象であることが多いので姿を消し、どこかに行ってしまった(=すぐには確認できない形態になった?)と考えるのが妥当だろう。と言っても、根本的に「消えた」わけではないと思うし「実際に消えてはいない」。なぜならわたしはそれらを何らかの形で覚えているし、それらのいくらかが確実に「今のわたし」に結実しているからだ。

メモの言葉に戻る。

と、言葉そのもの、とわたしが書いたのは、言葉には話された(る)言葉(は↑の音的なものと命運を同じくするのだろう、か?)、身体でパフォームされた(る)言葉、(あらゆる形態の)記された(る)言葉、何かが考えられた時に(その他のイメージなどと不可分な状態もありつつ、それでも言葉的な何かしらを経由するケースも含めて)使われた(る)言葉、想像された(る)言葉など、とこれらの順列・組み合わせパターン的なものやそれ以外、そして細かく言えばこれらを様々な形態で受ける側の言葉も在る(のかな?)としたら、話された言葉を聞く・見る側の言葉、身体でパフォームされた(る)言葉を聞く・見る側の言葉、記された(る)言葉を読んだ・触った時の言葉・・・的に・・・際限なく分化され得るし、そもそも、かつ、最終的にも区別不能であるという認識に基づいたうえで、何かそういう差異をズドーンと貫く「言葉そのもの性」みたいなものが「言葉」にはやっぱりあるんじゃないかな?なんてことを想像してみているからだ、が;わたしが「言葉そのものは果たして資料と成り得るだろうか?」と言った時の言葉というのはこういう理解の総体みたいなものをおぼろげにではあるが対象にしているのでanswerは無数に存在する、そういうことは知っている。

ひと~つ、そういうごちゃごちゃといろんな雑草や低木やツタ植物なんかが絡みまくってて、我々の侵入を阻むかのようなブッシュ的な理解の総体みたいなものをかぎ分けて、ふぅーっと見えてくる青空のよう、か・どうか・は・わからない・が・そう、考え・の・ひとつ・に、資料・に、なり得るだろうか?と言っているわたしが気にしているのは「言葉そのもの性」ではなくて、「言葉」が信用できるかどうか・なんだ。

だって誰かの言葉でしょ?誰かって信用できるのかな?ものすごいたっくさん考えてる人だッ!たとしても、ものすごく物知りだっ!たとしても、人類が想定出来得る最大限にフェアな人だっ!たとしても、いやあのね・みんな・がね、いやほんとに無数の人達だよ、が信用した誰かだっ!たとしても・さ、誰か、でしかないわけですよね。究極のところ・・・って、そこを疑いだしたら何も成立しなくなる?なら何も成立していないのかもしれない、ね。と、見えてきた青空は・瞬く間に曇り、雲行きが怪しくなり、突風が吹くなり、カミナリ、落ちる、yeh。So 言葉そのもの、ってのは、そうね、そもそも信用できないかもしれないよ、という「言葉」をだね、最終的に何が、誰が、(何のために)、確実(なんてないよと嘆くなよ俺)に担保するのかねぇ。と問う、中、空、の、体。なっぞ・謎ですね。で、もちろんこれも・言葉・俺も・誰か。とは言っても、アーカイヴにおける核心である言葉を疑うと元も子もなくなるのは承知の上でも、やはりこうして一回は考えて、おかないと。