• 何だ?
  • 、と
  • 2022年
  • 2月26日
  • 現在の
  • わたし
  • は考える
  • にいたった
  • わけ
  • だが、
  • そう言えば
  • ちょうど
  • 3ヶ月ほど前・・・
  • Flagey
  • からの
  • それなりに
  • 長い坂道
  • 上る、
  • 頬にあたる空気
  • が冬のそれ
  • だ、
  • とは言え
  • そこまでの寒さ
  • では
  • まだない、
  • なんて
  • 感じながら
  • 『この先に
  • 確実に
  • (と書いてはみた
  • が、
  • 今のような状況下
  • 本当に
  • 確実なんてものが
  • 言えるのだろう
  • か?
  • と考えるなら、
  • そもそも
  • 確実な時間はない
  • わけだが・・・
  • なんとかして
  • ?)
  • 生きられる
  • (だろう)、
  • 今・ここから
  • で言うと
  • (そしてかなり正確には)
  • 「まだ生きられていない時間」
  • に自分が
  • (きてい)
  • (だろう)
  • とき、
  • その時に
  • この考え
  • わたしのなか
  • 存在し
  • 思考が継続
  • している
  • かはわからない
  • が、
  • 3月あたりには
  • ともかく
  • このプロジェクト自体を
  • 振り返る予定
  • にしている、
  • というより
  • phase
  • (0以前から)
  • 3
  • (からどこへ?)
  • を設けることで、
  • こんな風に
  • 全行程中、
  • かが進んでいくなかで、
  • すでに、
  • そして常に、
  • 振り返り記すことを
  • 意識していくところ
  • から
  • 出来上がる
  • はずの
  • 最後のテキスト
  • には「
  • プレイヤー
  • 」達のことを
  • 含める必要が
  • ある
  • んじゃないか、
  • と思ったんだ。
  • そして、
  • その時、
  • 俺は、
  • たぶん
  • この11月に書いている文章を全部
  • 青色に変えたり
  • して、
  • また
  • 一番初めにphase0(から1)以前に書いた文章を使ってやったみたいに
  • 3月の俺が
  • 解体することを
  • 予感
  • していたりもする。
  • (そうすることでさ、
  • ある種の「和声法」を
  • なぞる事になる
  • から、
  • コンポジション
  • として、
  • まとまってくる気が
  • するんだよね。
  • っていうのが
  • やや
  • 手癖っぽくはある
  • から
  • どうなるだろうなー。
  • あ、そうか
  • このコメント的な文章
  • やや
  • 最初のものとちがう
  • レイヤー
  • 見えなくは
  • ない
  • よね。
  • うん。
  • 3月の俺どうする
  • ?)
  • そう言えば、
  • たった一度
  • だけ
  • 全ての「
  • プレイヤー
  • 」達
  • 集った
  • ミーティング
  • があった。
  • でさ、
  • 途中くらいで
  • 思ったんだ、
  • あー
  • このミーティング
  • をするために
  • もしかしたら
  • このプロジェクト
  • があったのかも
  • しれない
  • って。
  • それと同時に
  • 俺としたことが
  • 不覚にも
  • 録音ボタン
  • 押し忘れていて
  • 「あー
  • しまったー」
  • 「どうしたんです
  • か?」
  • 「いや
  • 録音忘れて
  • て」
  • 「あ、
  • 録音してるよ」
  • 「え!
  • あとで
  • 共有
  • してほしい
  • !」
  • そう
  • 一人の「
  • プレイヤー
  • 」が
  • 録音
  • してくれてたんだよね。
  • いや
  • 良かった
  • 良かった。
  • でさ、
  • その
  • ミーティング
  • なんだけど、
  • どういうわけか、
  • というか
  • そりゃそう
  • なんだけど、
  • 結局のところほぼ
  • も決まらないまま
  • 終わったんだ。
  • と言ってもさ、
  • よくある
  • 集まる事だけが目的
  • みたいな
  • 会議
  • 生産性のないやつ
  • なんかじゃない
  • んだ、
  • むしろ、
  • そう、
  • 概念的な会話に
  • どん
  • どん
  • 舵がとられていって、
  • 話が
  • 具体性
  • を欠いていく
  • んだけど、
  • 当然
  • の話だかもわからない
  • わけだから
  • 結論なんて
  • 無い
  • し、
  • さかのぼって
  • このミーティングで
  • を決めるんだかも
  • 関係なくなって
  • くる、
  • ただ「
  • プレイヤー
  • 」の誰かが発した言葉
  • 言語ロジカル的
  • ではない
  • ユニークなレスポンス
  • 含めたやりとりが
  • 時間の中に
  • 作られていってて、
  • あー
  • 良いな
  • これ、
  • みたいなね。
  • (ここに
  • 自分が好きな部分の
  • 抜粋・書き起こしを
  • 載せると良い
  • かもしれない
  • なー)
  • そんな会話、
  • だったり、
  • 言葉の交わしあい、
  • あるいは
  • 誰かの言葉を聴く時間、
  • 作れたことが
  • 嬉しいことだったんだよ。
  • それで良い、
  • というかさ。』
  • なんてこと
  • 振り返って考えていた、
  • まさにその日、
  • 2021年11月25日に、
  • このWebアップされていた!
  • ことを今日、
  • 2022年2月6日に、
  • 私は知ったのだ、
  • が、
  • このあとに続く文章は
  • phase
  • (0以前から)
  • 0
  • (から1へ)
  • において
  • アップされたもの
  • ほぼ変わりはない、
  • というか
  • 文章自体は変わらない。
  • のだが、
  • 文字数や字幅
  • によって
  • 文字の表示速度
  • を変える
  • 処理
  • を行い、
  • よりグルーヴ
  • するようにしたり、
  • 文章に
  • 「間」
  • を持たせるなどの
  • 細かい調整
  • を行い、
  • テキストに「声(
  • 人間らしさ?
  • )」を与える
  • ことを
  • 試みてみたわけだ
  • が・・・
  • 振り返ってみると
  • 2021年
  • 8月5日。
  • 〈『おそらく
  • これは
  • 展示
  • ではない。
  • 』(仮)〉
  • という一文を、
  • タイトル
  • の様なもの
  • として、
  • テキストファイル
  • 左上の隅っこ
  • に打ち込んだ
  • 時、
  • プロジェクト胎動のきっかけとなったメール
  • 受け取って
  • から
  • 286日
  • が経っていた。
  • そこからさらに
  • 2ヶ月ほどたった
  • 353日目
  • 今日、
  • 10月11日、
  • まさに
  • 読まれている
  • この文章
  • 綴られつつ
  • ある。
  • (と今まさに綴られた)、
  • という書き出し
  • が良い
  • かもしれない
  • と思いはじめた
  • のは昨日
  • か一昨日あたりのこと
  • だが、
  • 〈このプロジェクト
  • 3ヶ月超の時間
  • を要する。〉
  • とした
  • 8月5日採用の
  • 表明
  • (たねまきアクア08 p31に全文掲載)
  • と同様に
  • 事実ベース
  • ジャーナル風
  • の出だしに
  • 通じる点が、
  • うん、悪くない。
  • この文章は
  • 今回のプロジェクト
  • における
  • 〈強いて言うならば、
  • ひとつの体験
  • としては
  • なかなか
  • 把握しきれない
  • だろう
  • 時間のなか
  • につくられていく
  • ストラクチャー、
  • 期間中に
  • 生まれる
  • 様々な響き〉
  • (と言っても意味論的な意味での響きだったり振る舞い・行為といった意味での響きだが)
  • 〈と
  • その重なり
  • 残響によってうみだされる
  • コンポジション〉を
  • 文字通り
  • (文字によって)
  • 体現
  • 雰囲気が
  • 伝わる
  • かしらとなるべく
  • して書かれ
  • はじめたのだ
  • が、
  • それはそうとして、
  • 果たして
  • コミュニケート
  • しています
  • か?
  • やや具体的に
  • 言おう
  • としてみよう
  • とするなら、
  • スケジュール(という名のスコア)
  • が発表される
  • だろう、
  • 12月、
  • 1月、
  • 2月、
  • 3月
  • を別々の
  • phase
  • として
  • 区切られ
  • (と言いつつ、
  • 0から1の間に
  • 無数に存在し
  • 知り尽くすことなど出来ない数たち
  • のように、
  • 恐らくずっと
  • かが連綿とある
  • のだろう、
  • と思うが)、
  • それぞれの
  • phase
  • の出発点
  • (つまり全体的に見れば通過ポイント)
  • を設定し、
  • 私の探究
  • 制作活動、
  • これまでに
  • 培ってきた
  • タクティクス
  • を横断しながら
  • 紐解いてみるつもり
  • であること
  • 予告されるのだ
  • が、
  • 〈そう、
  • 譜面は
  • ある。
  • 〉し、
  • それは
  • 「地図」
  • のようなもの
  • で、
  • おぼろげに
  • 「ルート」
  • も描かれている
  • かも
  • しれない、
  • 〈もちろんプレイヤーも
  • いる。
  • アドリブ
  • が生まれ、
  • 予期せぬ飛び入りもある
  • かも
  • しれない。
  • コンポジション
  • 自身を拡張
  • したり、
  • 越える
  • ための手がかりを
  • 抱いている。
  • そうであって
  • ほしい。
  • 有観客
  • だろうが、
  • ブラウズする人
  • だけ
  • になろうが、
  • そこに
  • 人が行きかい、
  • 厳密
  • に言ってフリー
  • ではない
  • ジャズ
  • ではある
  • かもしれないそれ
  • を、
  • おそらくほんの一部
  • だけ
  • を聞く、
  • あるいは
  • 目撃し、
  • かしらのタイミング
  • チャンネル
  • があえば体験
  • する。
  • 〉のかなぁ、
  • 想像
  • はしている
  • んだけど、
  • 果たして、
  • 相変わらず、
  • それが
  • だ?
  • と問われても、
  • あぁ、
  • まさにそのこと
  • (だけ?)
  • を考えている
  • んですよねぇ、
  • としか言えない
  • 気がして
  • いる、
  • この先も、
  • 割と
  • ずっと。
  • そう言えば、
  • このプロジェクト
  • が胎動を始めた
  • 頃、
  • コロナ
  • をきっかけにして
  • これまでの活動
  • を振り返ること
  • に着手した
  • わたし
  • は、
  • 移動と整理
  • 繰り返しを経た
  • しばらくの間
  • 古い平屋の押入れ
  • 押し込められて
  • いた
  • ボロボロ
  • ダン
  • ボール箱、
  • を引きずり出し
  • ながら、
  • 直接箱に油性マジック
  • 書き込まれすぎて
  • もう
  • 意味をなさなくなって
  • いた
  • 中身のメモ
  • 読解しようとした
  • ものの、
  • 結局のところは
  • だかわからないものになり
  • かけて
  • いる
  • から
  • あけて確認するしか
  • なくなってしまったものたち
  • を引っ張り出し、
  • つまみ出し
  • ては、
  • これなんで
  • とってる
  • んだっ
  • け?
  • とばかりに首をひねり、
  • あー
  • もしかして
  • あれか
  • な!
  • 横道にそれ過ぎ
  • はじめる、
  • とてつもない
  • 長い道のり
  • 感じながら、
  • そもそも
  • この果てしない道
  • の先
  • なんてものがあるの
  • か?
  • 先が無いなら
  • 「道のり」
  • かどうかも
  • 知り得ない
  • ではない
  • か?
  • という、
  • 一段深まった風な
  • に包まれたり
  • していて、
  • それとは少し
  • 別のきっかけ
  • で意を決して、
  • から随分とたった
  • 2021年
  • 9月某日、
  • 過去の活動
  • あれこれ
  • のハードディスク
  • に分けられていたもの
  • 「全データ」
  • 集合!
  • 的に
  • ハードディスク
  • に入れ直そう
  • と思った
  • ら、
  • 今時の
  • コンパクト
  • かつ
  • カラフル
  • な5TBのハード2つ
  • 可愛らしく収まった
  • 「全データちゃん」
  • みたいな
  • 10TB以下
  • 私の20年
  • に、
  • なんだろな
  • という
  • 可笑しみ、
  • たった
  • これっぽっちな
  • の?
  • というと、
  • 一抹のやるせなさ
  • と、
  • まー
  • こんなもん
  • か!
  • という
  • そこはかとない
  • 清々しさ
  • が、
  • たぶん、
  • いりまじった
  • な感じ
  • 正直
  • 今も軽くうろたえて
  • いる。
  • 〈今度のコンポジション
  • マテリアル
  • には
  • Web、
  • ハイパーテキスト、
  • 展示
  • 空間、
  • イヴェント、
  • パフォーマンス、
  • その他に
  • 具体的なテーマ
  • としては
  • アーカイヴ、
  • それに関連して
  • 特に
  • 自身のこれまで
  • の活動
  • そのものを
  • マテリアル
  • としたものにしたい
  • と考えて
  • いる。〉
  • ことを
  • 体現する
  • ために
  • 早速
  • こうして
  • 8月5日
  • に書き送った
  • メールの本文
  • (たねまきアクア08 p31掲載」)
  • を引用、
  • というよりは、
  • 思考
  • を進め、
  • 上書きしている
  • に見えないか
  • な?
  • という考えのもと
  • 新たなテキスト
  • として書いているわけだ
  • が、
  • このプロジェクト
  • に登場する
  • 諸々
  • っていうのは
  • 〈それぞれは
  • 特段
  • 新しい
  • マテリアル
  • でもない
  • だろう。
  • ただ、
  • 私にとっての
  • チャレンジ
  • は果たして
  • これらをどう
  • コンポーズ
  • し、
  • 自分を含むプレイヤー
  • 達に
  • 伝達するもの
  • として
  • いかに記述し得る
  • のか、
  • という
  • 点。
  • そしてそれは
  • ほぼ
  • 同時に
  • パブリック
  • にむけられる。
  • それは
  • パフォーマンス
  • なのだろう
  • か?
  • そんな
  • パフォーマンス
  • 可能
  • なの
  • か?
  • という
  • 点。〉だろうな
  • と変わらずに思っている、
  • つまり
  • はじめに立てた「
  • おそらく
  • これは
  • 展示
  • ではない
  • (としたら、
  • だ?
  • )」という問い
  • は、
  • 今や
  • バリバリ
  • valid
  • なのだ。
  • (冬の風が寒い)
  • 補足:
  • phase0
  • (から1)
  • のための
  • テキスト
  • の締め切りは
  • 10月15日、
  • 357
  • だったはずなんだ
  • が、
  • Webの特性
  • を活かし、
  • (10月18日、360)
  • 現在も
  • 最後の言葉
  • は打ち込まれることなく、
  • なんと
  • なく
  • 最後の文章
  • っていうのがある
  • とすれ
  • ば、
  • 「このプロジェクト
  • の開始
  • (されていたこと)
  • を告げる
  • ことに
  • する」くらいの
  • ことに
  • なるんではないだろう
  • か?
  • (と思っている)
閉じる

2020年10月23日にわたしはそのメールを受け取った。もともとは@KCUAで開催されたイベントに出演したお礼の挨拶だとか、イベント中に言及した作品のリンクを送ったりだとかなんとかというやりとりであったのだが、「さて、いきなり別の話題なのですが、mamoruさんにご相談したいことがあります。」という見事な切り出しのもと、京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品活用展という枠組みを使ったプロジェクトを打診された。わたしとしてはかなり意外であった。その理由はまた機会があればお伝えするとして、なんせ不意打ちに近い感じ、と言ってもよいくらいだった、のでメールの主にその真意、というか詳細ですね、を確かめたところ「大学が持つ芸術資源(有形無形問わず)はどのように活用可能なのかを考えるためのシリーズで、極端に言うと持ってくるものは1点でも成立する、と思っています。」というような返信がありさらに驚いた、1点とは! と、同時に、これは面白いかもしれないという予感が走った。そのメールの主とのやりとりは続き「大学が持つ芸術資源」のより無形なものであると思われる「やってみる」みたいな大学が本来もっている「お仕事チックな"置きに行く"行為ではない」教育機関ならではのバッファを最大限に活かすことが下敷きになった末に(彼女は「第十門第四類」を作り出すプロジェクトの主要な一人のプレイヤーとなり、他のプレイヤーも加わり)今回のプロジェクトが「おそらく・・・」生まれたのだと思うとすでに感慨深い。

こういう符合する感は時にアイデアを横断する際のvehicle*になることがある。音楽的な時間の中で音程関係によって成るモチーフやリズムの構造が何かしらのまとまりを生み出すことがあるのと似ているだろうか。

*vehicle:
ve・hi・cle | víːək(ə)l, víːhɪ- |
〖語源は「運ぶ道具」〗
名詞複~s | -z | C⦅かたく⦆
1 乗り物, 車 (!通例陸上用でエンジン・車輪の付いたものをいう)
▸ motor vehicles
自動車(類)〘car, bus, truckなど〙
▸ a space vehicle
宇宙船
▸ four-wheel-drive vehicles
四輪駆動車
▸ an armored vehicle
装甲車
▸ a solar-powered vehicle
太陽電池式の車.
2 【目的達成の】手段, 方法; 【思想・考えなどの】表現手段, 伝達手段, 媒体 «for, of»
▸ a vehicle for self-expression
自己表現の手段
▸ Language is the vehicle of thought.
言語は思考の伝達手段である.

グルーヴ*(レコードの溝)は音の連なりが刻まれた「もの」であると同時に音の連なりを再生するものである様に、私が書く文字は、おそらく体験され、過ぎ去るものとして打ち込まれ、また体験され、過ぎ去るものとして再生され得る文体を目指す。これを「グルーヴ体」と仮に呼ぶ。

*グルーブ:
グルーヴに関する論考はCOMPOST 2020掲載の「あえて間違った読み方を」(石原知明)を参照した

造語的な努力、文体の揺らぎ、既存の作文プロトコルを疑い迂回路を求める本能、読点の多用で書き言葉のサステインペダルを踏み続け読み手が保持できる意味の時間性の破綻と構造のねじれを企図した上で、新たな意味再生を期待したり、そういうことがあってもなぜか読めてしまう響き・リズムとしての文体(あるいは歌・詩)や、(かっこ書きによるsuper imposition、というか俺的にはカウンターポイントかな)、も自分なりに培ってきたものだから。

全てを書き記すことは不可能だし、そもそも要請はされていない、要請されていないことをやってはいけないわけでもないし、規範なんて逸脱してナンボでもある、かといってコミュニケートしないことは何かまずい気もする。

ここでいうタクティクスはミシェル・ド・セルトーが「日常的実践のポイエティーク」の中で語った内容に感化されている。なんとかしてやっちゃう(手段をDIYしたりしつつ目的を達する)的なブリコラージュの作法・精神を参照して読んでもらえたなら、それに越したことはない。

〔アーカイヴ〕の沈黙/前言説性を聴く=理解する・しようとする|を準備し 用意する 眼差し|スケッチ|drawings|思片|メモ|ノート|発話|recordings|それらの〔残響〕

〔アーカイヴ〕の沈黙/前言説性を聴く=理解する・しようとする|を語らせようとするーactivationーを展示することでperformされ得る何かとは?

〔歴史〕は/を[記述する]

(2020年12月1日の〈思索の地図〉より)

mamoru〈思索の地図〉

2003年頃から自作・改造楽器やループサンプラーなどを使った即興演奏に取り組んでいた頃の音源や映像記錄が焼き付けられた数百枚のDVDに残っているありとあらゆるデータを足したとしてもそこまで変わるものではないだろう(が、あれもハードに移すのか?と思うことは、that's not the point、本筋から逸れる、という理屈で避けている)。

執筆時にヨーロッパ全域、特にオーストリア、ドイツ、オランダあたりではロックダウンがはじまりつつあって、ここベルギーもそのうちくるのかなーどうかなーという様な状況である

「プレイヤー」はプレイするんであって、ワークするんではない、と思いたい。例えばサッカープレイヤーはいるけどサッカーワーカーは・・・いない(現実にはいるだろうけおど。今日のおれ、サッカーワーカーだったな。とか。)様に。

しつこいが彼らは「プレイヤー」であってワーカーではない。これは重要だ。プレイするにはルールみたいなものコンセンサス的なものがいるだろう。意図されてはいるが、目的性なんてのはそこまで無いようなもの。それが遊びだと思う。バスケでいうとあの高さに設置したバスケットに球いれたからって何か意味があるわけじゃない、けどそれで点数はいること。という。その結果、的に得るものがあろうが、生産するためにプレイするわけじゃない。

偶然でもないけど、最近読んだ本なんですけどね、Byung-Chul Hanという哲学者のThe Disappearance of Rituals (Polity, 2020)という著書のなかに「プレイヤー」Playerにまつわる言及があってとてもおもしろく読みました。

一節を引用しますと

オリジナル:
Today, to live means to produce. Everything moves from the sphere of play to that of production. We are all workers, and no longer players. Play itself is watered down, it becomes a leisure-time activity...中略...The sacred seriousness of play has entirely given way to the profane seriousness of work and production....

完全なる私訳:
今日、生きるとは生産することを指す。全てがプレイする世界から生産する世界へと移行してしまった。私たちは皆ワーカーであってプレイヤーではなくなってしまった。プレイ自体は希薄にされ、余暇の過ごし方に成り下がった・・・プレイの神聖な真剣さ(seriousness)はワークと生産の俗っぽいただの過酷(seriousness)さに道を譲らされ完全に取って代わられてしまったのだ・・・

などなど。全ての「プレイヤー」におすすめの良書です。

またプレイヤーのことですけどね、例えば2021年12月15日にプレイヤー間のエール交換がメールを介してなされていた。こんな無目的な遊びのようなことをやっている他のプレイヤーのひたむきな遊ぼうという努力のためにエキスパート達がお互いに奮い立たせている。(と思った)いやそうではない、無目的ではなくて、ただ結論がない、あるいは要らないんだ。でも、ぎゃんばる(れ)!と。

2022年1月21日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「何だ?」という言葉を眺め考えていて、ふと思った。こんなにシンプルに[言い得ない何か]を体現した「(日本語の)言葉」があるだろうか?わたしには「何だ?」という文字の連なりと記号は素晴らしいフォーミュラ(数式)に思える。

そもそも言語自体が[言い得ない何か]を共有するという、よく考えてみれば矛盾したような動機を、いや、むしろ無理難題を解決する方法への希求こそを、起源として生まれた、と考えることができるだろう(か?)。仕草とか簡単な音とか合図的な何かでコミュニケートしていたであろう人類(など)が、何かをそれ以上に伝えたい、あるいは理解されたい欲求か必要か動機があったのだ、と仮定させてください、とりあえず、いまだけで良いので。

「うぅうううう、えぇえええええっと。(言葉以前の世界を言葉では当然表せないとは思いつつもそれを試みています)あぁあああああ〜」という何か(=呼びかけ/call)が発せられた(たぶん)。そしてそれを聞いた誰か(がいなければ言語ではないとわたしは思う)が「うぅううううう、えぇええええっと、あぁあああああ〜」という何かの狭間に感じたそれ(=応答/レスポンス)こそ「何だ?」の原型だったのではないか、と想像する、そして紛れもなく疑問形であっただろうこの「何だ?」が発せられた時に言語は産声をあげた。(とわたしは思う)。言語はきっと伝達欲求の音的な発露に次ぐコミュニケーションしたのかディスコミュニケーションに終わったのかわからないという不確定な状態から出発したはずだ。そしてこのコールからのレスポンス、というか原初的な「何だ?」の絡まり合いといったら、あぁ、これこそがリアリティ。その美しさといったらない。「願い」は叶わぬことで「願い」であり続ける、的な。始まりに「断絶」があった(かもしれない)、的な。あまりに切ない、妄想に近い? 言語的コミュニケーションの起源に関する想像を前提に、仮に、したとすると、発せられる言葉自体には意味がない=理解できない、としても、なんと、経験はできる(少なくとも音的に)。わからないことでも経験は出来る・・・聴き・想像することにこそ、あの「断絶」(の可能性をすくなくとも大いに含むやりとり)が人類にとっては壮大な旅の始まりにすぎなかった、と言える可能性があるようにおもう。

わたし(だけではないけど)は、よく英語で、とか日本語でとか、字源的なことや語源的なことを引き合いに何かの考えをすすめることがよくある。多言語による考察は、何かを言い表そう、その意味を捉えようとしたときに、これまで人類がいかに「それ」の周囲にある断絶を乗り越えて漸近しようとしてきたのか、という足跡をたどるような行為かもしれない。または、何かイメージしている色があったとして、10色ペンだったものを15色とか30色にするみたいなものだと考えればいい(のか?)。その勢いで100色、いや1万色?くらいあれば「橙グリーングレー気味の赤」みたいな謎な色のペンがあるかもしれないし、さすがに混ぜないと無理か・・・という複雑怪奇かつ出番のめったになさそうな色でも、すでに細分化された色を混交させることで近づくことができるかもしれない(あるいはそういう類の幻想を持つことはできる・・・)。そういった努力を繰り返しながら、旅は続く、あともう少しで「コミュニケート」できるんではないか?という淡い期待に動かされて、より細かく・詳細に・そして創造的に言葉を繰り出していくとき、ニッチな言葉や複数言語を織り交ぜた造語?みたいなものが生まれてくる(だろうか?)。細分化され専門化された色合いや意図やニュアンスはより正確・明確・鋭角になる。と、同時におそらく一般的に共有されている「こういうことだよね」という大きな場所からはどんどん離れていく道を、さらに逸れていき「ついてきてしまった」誰かをどこかへしっかり導くよりもむしろより複雑な混乱へと放り出すことになる小道・・・へと誘いかねない、といった結果を招くことに最適化されていき、その果てしない旅路の先にきっと「おかえり」と言って、にこやかに再び迎えてくれるのが、あのはじまりの「何だ?」なのかもしれない