VOICE @KCUA

たねまきアクア 01

鷲田清一「作品のプレゼンテーション?」

「VOICE @KCUA」@KCUAの広報誌「たねまきアクア」に連載中のコラムです。各号、さまざまなジャンルの書き手が登場します。 第1回は、哲学者で京都市立芸術大学学長(2016年当時)の鷲田清一さんです。

プレゼンテーションというものを、わたしはあまり信用していない。もちろん、心ならずもそれが必要とされる場面もあることはある。というか、営業でも事業提案でも、ヒアリングや面接でも、明快なプレゼンテーションというものが昨今、ますます求められるようになっている。けれどもことアートにおいては、何を語るのか、どう語るのかが、上の場面で求めらるものとはずいぶん異なるはずだと思っている。

「芸術」は、作品として、あるいはパフォーマンスとして、すでに提示されてある。だからそれについて説明を加えるのは、あえていえばリプレゼンテーション、つまり再提示もしくは代理提示であって、プレゼンテーションなのではない。それは出来上がったものについて事後的に語るものであって、アートの制作プロセスそのものを言葉でともに担うものではない。

じぶんが創った作品についてプレゼンテーションを試みるときに、たぶんだれもがまずぶち当たるのは、うまい言葉が見つからない、どんな言葉を口にしてもきちんと言い切れない……といったもどかしさだろう。いや、そもそも芸術作品について語るというのは、ある言語から別の言語への翻訳ではなく、非言語から言語への翻訳なのだから、その語りは不完全な再提示、つまりは言葉足らずになるほかない。

だから、ちょっと逆説的な言い方になるが、言葉によるプレゼンテーションは、言葉が足りない、うまく言語にできないというもどかしさ、つまりは口ごもりのなかでこそ、より精密になされるはずである。すらすら再現できるのなら、はじめから言語でそれを表現すればいいだけのことだ。

では、芸術にプレゼンテーションは不要なのだろうか。よくてせいぜい付け足しにすぎないのだろうか。

芸術はひとの感性や想像力を豊かにするものだと、よくいわれる。言葉にならないものを表現するともいわれる。だが、「悲しみ」という語が悲しみの感情に似ていないように、言葉もまたわたしたちのもつれた思いや体験に新たな形を与えるものである。そういう意味では、言葉もまた表現と理解の触媒として大事なものである。が、言葉が触媒としてはたらくというのは、言葉にも言葉というかたちをとって立ち上がる、その瞬間があるということである。そう、意味が、形が、生まれる瞬間が。

作品の制作ではなく、いったん仕上がった作品を人びとのあいだでさらに生成させるためにこそ、言葉はある。作品のなかに潜在している意味を、こんどは他者たちに向けて語り、問いかけ、他者たちへと架橋してゆくこと、いいかえれば他者たちとのあいだでそれをさらに生成させること、そこに芸術におけるプレゼンテーションの意義はあるのではないか。

何十年ぶりかに偶然再会した人を、はてだれだったっけと訝しげに見つめているさなか、「あっ、顔が出てきた」と叫び、懐かしむ瞬間があるように、あるいは逆に、家族や友人といった《同じ顔の中に日ごと見知らぬものが現われる》(ジャコメッティ)のを見て震えることがあるように、自作品についての他者に向けて語るなかにもそのようにある未知の意味が生成しだす瞬間がある。そこから作品の別の〈顔〉、別の〈しるし〉が立ち現われる瞬間が。

だから、芸術制作に取り組む人は口下手でいいとおもう。あえて口下手がいいとまでは言わないにしても、他者の言葉をそこから引き出すには言い淀んでいるくらいのほうがいいとおもう。

むかし、宮下順子という女優さんについてこう書いたことがある——
《あまたいる女優のなかでも、このひとほど顔とからだがなめらかに続いているひとは少ない。このひとの顔はからだを引きずっている。あるいは、もてあましたからだのそのもてあました分が、顔になっている。》

そういう切っても切れない関係が、芸術表現とそれを再提示する言葉とのあいだにあればいいなとおもう。

2016年1月15日(金)更新

鷲田清一(わしだ・きよかず)
1949 年生まれ。京都大学大学院博士課程修了。関西大学教授、大阪大学大学院教授、大阪大学総長を経て、大谷大学教授、せんだいメディアテーク館長。2015 年度より京都市立芸術大学学長。専門は哲学・倫理学。哲学の視点から社会が抱える諸問題に取り組む臨床哲学を提唱。『「聴く」ことの力』『モードの迷宮』など著書多数。