STUDIO VISIT @KCUA

たねまきアクア 07

長坂有希|起点としてのニュータウン

@KCUAスタッフがさまざまなアーティストのスタジオを訪問し、スタジオの様子や制作の背景にあることを探るコーナー「STUDIO VISIT @KCUA」。今回は、2020年秋に@KCUAで実施予定の京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品活用展に向けてプロジェクトを始動した長坂有希さんが生まれ育った大阪府堺市の泉北ニュータウンを訪ねました。国内外の様々な場所を巡って展覧会やアートプロジェクトを行う長坂さんは、固定のスタジオを持たず、移動の途中や旅の先々で制作しています。ニュータウンの公園や団地、よく作業場所として利用しているカフェを移動しながら、幼少の頃の記憶から美術家になるまでについて、お話を伺いました。

整えられた公園と不気味なはにわ

出身を尋ねられた時には「ニュータウンの出身です」と答えます。高校3年生で地元を離れてアメリカに留学したので、私にとっては大阪ではなく泉北ニュータウンこそが原風景だからです。私が住んでいたのはタウンハウスと呼ばれる集合住宅でした。強く記憶に残っているのは、子どもの頃によく遊んだ近所の大蓮公園の一隅にある「はにわ広場」です。綺麗に整えられたニュータウンに、突如として得体の知れない不気味なはにわが現れる。まるで公園の中に時空が歪んでいるスポットがあるようで、子供の頃は怖くて足を踏み入れるのに勇気がいりました。

ずっと抜け出したかったニュータウンの環境

自分の育った環境にはずっと違和感を感じていました。反抗期だったからなのかもしれませんが、自分のいる場所が狭く限られている気がして、とにかく離れたかった。ニュータウンは人工的に作られた、歴史のない街だと思っていました。両親は広島と島根の故郷を離れて大阪にやって来て家を買ったので、自分の家族とこの土地とのつながりが見出せないことも嫌でした。

同世代でほぼ同じ所得層のサラリーマン家族の子どもが集まり、平穏だけどどこかしっくりこなかった小・中学校。退屈な進学校だった高等学校。決められたレールの上をそのまま歩むことに反発を感じ、かと言って具体的に学びたいことも思い浮かばず悩んでいました。そんな時、交換留学をした友人の話を聞いてすぐに留学を決めました。期間は一年間だけでしたが、とにかく当時の自分を取りまく環境から脱出することが大事だったのです。

衝撃だらけのアメリカ留学

留学先のテキサスはメキシコとの国境に面しており、飛行機から見下ろすと空軍基地が並んでいて、ニュータウンの街並みとはまったく違っていました。滞在先は治安の悪い地区にあり、家の窓には鉄格子がはめられ、基本的に外を歩くのはダメ。高校の入り口には探知機が備えられていて危険なものを持っていないかを毎朝チェックされます。通学鞄は中身が見えるように透明なビニール製リュックサックでした。体育館の更衣室では同級生がマリファナの草を食べていて、吸うと匂いでばれるからそのまま食べるんだと言う。給食は砂糖たっぷりのシナモンロール、タコス、フライドポテトに、飲み物はソーダかミルク。生徒の誰かが妊娠したという話題も日常茶飯事でした。住民はヒスパニック系が大半で、白人やブラック系、アジア系もいて、家庭によって言語も宗教もさまざま。自分はなんて画一的なニュータウン育ちの良い子だったんだと、ものすごいカルチャーショックを受けました。
言葉を一から学ぶのも、人間関係やコミュニティをゼロから築くのも大変だったけど楽しかった。服装も化粧も完全に真似をして、ショートパンツを履いて、ありえないくらい濃い化粧をしていました。プロムと呼ばれるダンスパーティーには二人組じゃないと行けないので、誘ってもらうためには友達を作らなければと必死でした。自己が確立される前だったので、コピーすることに違和感はなく、大学の途中で「あれ?」と感じる時期がくるまではカメレオンのようでした。
英語とアメリカ史の授業は必須でしたが、最初は英語が分からないので、体育や料理、美術の授業を選択しました。美術の授業で模写をした時に、私の絵を周りがとても褒めてくれたんです。自分でもそのことに驚いたし、それまで言語面で欠けていると感じていた自分の能力が補われたようで、自己存在意義を高めてくれるきっかけとなりました。

アクシデントがきっかけで 建築から美術の道へ

アメリカでの暮らしが楽しかったので、そのままアメリカの大学に行こうと思いましたが、何を学ぶかを考えないといけない。5歳の頃からずっと建築家になりたいという漠然とした夢がありました。自分で作った瞑想部屋のような居心地の良い空間で過ごしたいという願望をずっと持っていました。また、小学生の頃に転校してきた同級生の女の子が、建築家をしているお父さんが設計した一軒家に住んでいたことで建築家という職業への夢が広がった記憶があります。
入学してからの2年間は建築学部に進むための基礎科目を取っているつもりでいました。しかし、その手続き時に、建築学部だけは他の学部とは違い、一年次から建築学部の専門科目を取らなければならないことが判明し、建築学部に進むことができませんでした。
落ち込む私に、美術と生物学を専攻して建築家になった友人が「基礎は同じだから、美術をやれば良いんじゃない」と助言をしてくれました。そこで、残りの二年間は美術を学んで、それでも建築に進みたかったら大学院で建築を専攻すれば良いと考え直しました。これは私にとってとんでもないアクシデントでした。肯定的に人生を捉え直して、ようやく美術家になる覚悟ができたのは去年くらいです。
そんな経緯もあり、初期の作品ではル・コルビュジエやブルーノ・タウトなど建築にまつわるものが多いです。インスタレーション作品を作り始めたのも、空間を作りたかったから。その後も建築への興味は持ち続けていたので、大学卒業後はベルリンの建築事務所で一年間働いたり、紙による実寸大の建築物を撮影した構成写真で知られる現代美術家のトーマス・デマンドに誘われて、実際の建築プロジェクトにリサーチアシスタントとして関わったりしました。

震災と日本への帰国

その後、フランクフルトの大学院に進み、海外の生活に適応しながら楽しく暮らしていたのですが、 2011年の東日本大震災を転機として帰国を考えるようになりました。日本では刻一刻と状況が変わる一方で、私はすごく離れた安全な環境でインターネットのニュースを見ている。それらが自分とあまりにも関わりがないことに強い危機感を覚えました。それまでは海外で外国人として、社会から少し離れて作品を作るような距離感が心地良かったのですが、30代になるにつれて社会ともっと関係性を持った方が良いのではと考えるようになりました。自分は社会とどう関係性を持ち、なぜこの作品を作るのか。これから日本がものすごく変わるかもしれないと感じた時、何らかの形でその中にいたいと思ったのです。

《木:これから起こることに出会うために / Trees: Audition for a Drama still to Happen》(2020)

秋田での滞在制作で長坂は、江戸時代後期の紀行家、博物学者、本草家である菅江真澄と彼が描き残した「木」の図絵に着目し、「写す」という行為を介して、菅江と彼が描いた木に接近しようと試みた。写すという行為は、菅江が木に向けていた視線や姿勢を自身の中に取り入れ、描かれた木々について理解を深めるための行為であると同時に、印象や解釈の「ずれ」を生み出す可能性をはらむ行為でもある。長坂は意識的に「ずれ」と向き合いながら作品制作を行うことで、これから起こるはずのことに出会うための空隙を開こうと試みた。

「木:これから起こることに出会うために」展示風景/BIYONG POINT、2020 © Kenichi Hagiwara

日本の社会やシステムに戻る手段としての 文化庁の海外研修制度

17年間ほど日本を離れていたので、大人としての社会経験もなく、アートのネットワークも全然ない。そこで、文化庁の海外研修制度に目をつけました。この制度を活かして、日本の社会やシステムとの接点を作ってから日本に帰ろうと考えました。その頃はモノにまつわる背景をリサーチする中で物語を構想するという作風でしたが、英語ほどドイツ語を読めるわけではなく、図書館に山ほど文献があっても十分には活用できませんでした。でも、ロンドンなら英語で読みたいだけ文献が読めます。まさにアーカイブの国とも言えるイギリスで、帝国主義の歴史に焦点をあてたリサーチに専念したいと考え、受け入れ先としてヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の国立美術図書館を選びました。ロンドンでは、世界中の色々な所からモノが集められ、色々な人が来ていて、色々なエネルギーが渦巻いています。そんな街で、モノや人を介して時空の旅に出るプロジェクトをしたいと考えました。

現在の制作につながるロンドンでの体験

ロンドンでは街や博物館、美術館などを巡る時にはあえてキャプションや解説を読みませんでした。偶然に出会って惹かれたものを感覚的に選び、そこから多角的にリサーチを広げていきました。その方がそれまで気がつかなかった興味のあることが見つかるからです。
ロンドンでは文明や帝国、すなわち人間が生み出したものについて考えていたので、近年の作品ではあえて人間の文明や文化に焦点をあてない作品の制作もしています。それはロンドンの経験があったからこそバランスが取れるものです。ロンドンでの一年間という短い期間は、これからの活動の種となるものを集めていた時期でした。そこから集まってきた気になるものたちを、今も一つ一つ調べながら発表していて、その頃に始めたプロジェクトは今でもずっと継続しています。

《手で掴み、形作ったものはその途中で崩れ始めた。最後に痕跡は残るのだろうか。02_ライオン》(2020)

ロンドンの大英博物館に所蔵されているライオンの彫刻との出会いがきっかけとなり、今は目を失い、盲目のライオンの彫刻がかつて見ていた風景を探す旅に出かけることになる。旅の途中で中東からの紛争難民との遭遇や、かつてライオンが置かれていた土地に住む人々との出会いにより、旅は予期していなかった方向に向かい始める。過去と現在の出来事の狭間で翻弄されながらも旅を続けるなかで、歴史の中で繰り返されてきた事象や、人が持つ不変的な習性や欲望が浮かびあがってくる。

「HER / HISTORY」展示風景/岸和田市立自泉会館、2020 © Takuma Uematsu

タウトのおかげで解けたニュータウンの呪縛

文明や歴史に関心を持ったのは、歴史が浅く、何世代も同じ土地で畑を営み続けるような血や土地のつながりがないニュータウンに違和感を持ちながら住んでいたということが影響しているのかもしれません。でも、ブルーノ・タウトにまつわるプロジェクト《Project T, T for Taut.》を通して、ニュータウンという概念はイギリスの文化人やタウトから始まり、世界中に飛び火したという思想の流れがあることを理解しました。当時の世界の状況に対応するためにタウトが人々のことを思いながら作ったニュータウンは、アメリカに波及し、日本にも形を変えて取り入れられてきた。その一つとして、私が住んでいたニュータウンができたと考えると、思想的に辿れるルーツがあるんだと感じて、やっとニュータウンの呪縛から解放されました。そのため、いまではニュータウンをベースに活動することに嫌悪感はありません。家族とのつながりもあり、ここは拠点というよりも帰ってくる場所、そしてまた旅立つ場所だと捉えています。

《Project T, T for Taut.》(2013)

ドイツ人の建築家ブルーノ・タウトと彼が晩年を過ごしたイスタンブールの自邸を軸に、タウトが使った素材や設計した空間の物理的性質を探りながら、彼の着想や作品、移動歴を辿ることを通して、 タウトが見据えていたビジョンとは、そしてそれをどう次世代につなげるかについて問いかけるプロジェクト。タウトのアイデアの影響を受けて建設された日本のニュータウンで育った長坂にとっては、自身のアイデンティティ形成がより大きな歴史や国際的な潮流と関係していたことを探る試みとなった。

Exhibition view of “ Signs Taken in Wonder ” at The MAK - Austrian Museum of Applied Arts/Contemporary Art, 2013 ©Katrin Wißkirchen, The MAK

  • Exhibition view of “Signs Taken in Wonder” at Kunstverein Hannover, 2013 ©Raimund Zakowski
  • Booklet Documentation ©Shojiro Okuno

2020年3月31日(火)更新

長坂有希
1980年大阪府生まれ。テキサス州立大学芸術学部卒業、国立造形美術大学シュテーデルシューレ・フランクフルト修了。2012年文化庁新進芸術家海外研修制度によりロンドンに滞在。リサーチとストーリーテリングを制作の主軸とし、遭遇した事象の文化、歴史的意義や背景の理解と、作者の記憶や体験が混じりあう点に浮かび上がるものを、様々な媒体をつかい表現している。主な展覧会に「予兆の輪郭」(TOKAS本郷、2019年)、「Quatro Elementos」(ポルト市立美術館、2017年)、「マテリアルとメカニズム」(国際芸術センター青森、2014年)、「Signs Taken in Wonder」(オーストリア応用美術・現代美術館MAK、2013年)など。