REPORT @KCUA

村上華岳|入江波光|渡辺与平

2020年度京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品活用展より

解説協力:京都市立芸術大学芸術資料館

京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品活用展「第十門第四類」(2021年12月11日–26日)に関連して、2020年度の芸術資料館収蔵品活用展に出品された、入江波光、村上華岳、渡辺与平の3名の作家による卒業作品についての解説を再公開します。



本学芸術資料館には、明治期から現在まで歴代の卒業・修了作品が収蔵されています。これらの作品を順に辿ると、時代を追うごとに表現の傾向が移り変わっていくのに気づかされます。最初期の特筆すべき変化としては、1903年の京都市紀念動物園(現在の京都市動物園)開園以後、動物が積極的に描かれるようになったことや、欧州視察で知見を得た竹内栖鳳(1864–1942)をはじめとする当時の教員から学んだ西洋画表現からの影響などが挙げられます。2020年度の芸術資料館収蔵品活用展では、これらの「出会い」が作家たちにもたらしたものとその受容のあり方を、入江波光(1887–1948)、渡辺与平(1889–1912)、村上華岳(1888–1939)の3名の画家の卒業作品から考察しました。

Introduction

この3点の作品は、明治の38年から40年に描かれた、当時の旧制の中学校である京都市立美術工芸学校の卒業作品です。現在の高校卒業くらいの年齢で描いたものになります。当時の美術工芸学校は技術的な教育を行う実業学校の一種で、実技と同様に、学生たちが豊かな教養を得るための教育も重視されていました。故に、明治13年に京都府画学校という前身の学校ができた頃に比べると、実技の時間そのものはずっと少なくなっています。そこで行われていた教育は、基本的な部分では江戸時代から続いていたさまざまな絵画教育と大きくは違いませんでした。明治時代に入っても、京都の画壇では「円山派」や「四条派」が江戸時代に引き続き中心的な役割を担っていました。この部屋の3点の作品の作者、入江波光、渡辺与平、村上華岳の3人が先生にしていたのは、竹内栖鳳、山元春挙、菊池芳文といった、まさにこの円山派、四条派に属している画家です。この二つの流派は、写生を重視したものと捉えられています。ここで言う「写生」は、西洋画でいうところの写実、例えば立体的に見える陰影表現などとは少し違い、対象が持っている生き生きとした活力や精神性を絵の中に写し取ることを重視したものです。

円山派がそういう写実的な表現、そのなかで写生というものを非常に律儀に追求していったのに対し四条派では、本物に即して絵を描くことを重視しつつ、詩や文学の世界との親和性の高い絵画表現を目指して、その詩情を取り込むような絵画表現がよく使われるようになりました。その代表的な表現が「つけたて」という筆の表現です。「つけたて」というのは、筆で一本の線を引くときに、水の含ませ具合で濃淡をつけることによって、でき上がった線のなかに、その筆のなかにある墨の濃淡がそのまま表現されて濃い部分と薄い部分ができるという表現の技法です。その濃い部分と薄い部分をうまく使い分けることによって、一筆の線のなかで立体感を表すというわけです。その一筆一筆の濃淡を使い分けることによって、筆を省略していくと、一種の抽象化のような作用が働いていきます。すると、対象物の本質というものをいかに少ない筆の数で表現できるかというのも画家たちの興味の対象になっていきます。入江波光、渡辺与平、村上華岳の3人の絵画の先生である竹内栖鳳は、省く筆、省筆というものを、いかに絵のなかに盛り込んでいって、いらないものを省いて、必要なものだけで絵を構成していくのかということを追求していました。この「つけたて」と比較対象になりやすいのが、狩野派と言われている東京画壇に君臨していた流派の、筆の線を重視する表現です。輪郭線を用いて表現すると、表現としては硬く、強い印象になります。美術工芸学校の卒業作品のなかにも、輪郭線をとても強く意識して描いている作品もありますが、この3つの作品は、輪郭線のない柔らかい線による「つけたて」をうまく生かして描かれています。

また、当時教員であった竹内栖鳳は、ヨーロッパで西洋の美術品を色々と見て回り、帰国後には西洋の美術の美点、そしてそれと比較して日本美術の、もしくは日本絵画の良い点を学生たちに説きました。そのなかで、空間の把握というのがとても大きな一つのテーマになっていたようです。筆で描くなかで、どうやってその一枚の紙、もしくは一枚の絹のなかに空間を作り出すのかということが課題として与えられていたようです。この3点の作品はいずれも、そういった配慮がうまくなされています。この頃は、明治維新の時期のように、単なる国粋主義という形で西洋を排除するということもありませんでしたし、日清や日露という戦争を経て、世界のなかの日本というものを国民自身もなんとなく感じるようになってくるなかで、西洋の美術というものが自分たちの視野により強く入ってきた時期だと言えるでしょうか。そういう背景もあって、渡辺与平の《狐》のように、まるで洋画の世界のような日本画というものが生まれてきたり、村上華岳の《羆》のように、狩野派風の輪郭線を強く描いた枝を手前に配置し、また顔は細かな線を重ねて描く西洋の絵画のような表現を取るといった、絵の中でアンバランスな部分が生じるような工夫が行われていくことになります。

村上華岳《羆》
1907年
絹布に墨、顔料
京都市立芸術大学芸術資料館蔵


手前に描き込まれた木の枝には、狩野派のような、輪郭線を重視した表現を用い、奥にいる羆には非常に柔らかい四条派風の「つけたて」をさらに薄く淡くしたものを何回も重ねて、毛の柔らかさを出しています。このような、非常に淡い線を何層も重ねていく表現の仕方は、四条派でも狩野派でもなく、どちらかというと西洋画に近いのではないでしょうか。こういった形でリアリティを表現しようとしているのは、村上華岳が新しさを求めるなかで辿り着いた一つの表現方法だと言えるでしょう。この作品はおそらく、日本で2番目に古い動物園として知られる、京都市紀念動物園(現在の京都市動物園、1903年開園)での写生に基づいたものだと思われます。この羆は、頭と腕の配分や形など、実物とは違った様子に描かれています。近づいてみると、非常に細い線で陰影を表すなど、細かで写実的な表現がなされているのがわかります。かと思えば、目が妙に人間っぽくなっていたりして顔の表情にとてもこだわって描かれているなど、その前後の学生の作品と比べて、少し変わった表現というものが見てとれます。村上華岳は、普通の表現をあまり好まず、何か新しいことをしたいと考えていた、天才肌の人でした。非常に若い頃のものではありますが、そういった意味で、村上華岳の真骨頂が出ている作品と言えます。

入江波光《春雨》
1905年
絹布に墨、顔料
京都市立芸術大学芸術資料館蔵


ここに描かれた山鳥、桜の花や幹は、墨や顔料の濃淡を使って、筆の数を減らすことによって対象物をうまく表す、四条派風の「つけたて」の組み合わせによって描かれています。また、遠近法をすごく意識しており、筆の濃淡によって、いわゆる空気遠近法、すなわち奥の方を淡く、前の方をはっきりさせた表現を積極的に使って、複雑に前後する桜の花の枝を、絵画空間のなかに上手く描いた様子が見られます。また、画面上に表れているのは山鳥と桜ですが、空間全体を包括するテーマとして《春雨》と題し、実は目に見えないものも表現しようとしたことがわかります。これは新しい日本絵画の取り組みが学生のなかに少しずつ広がっていった一つの例だと言えるでしょう。入江波光は、美術工芸学校を卒業した後、一度図案の仕事についたものの、その後やはり画家を目指して、上級学校である絵画専門学校に入学します。卒業後にはその絵画専門学校の教員になり、模写を研究の対象として、古画研究で非常に大きな実績を残しました。

渡辺与平
《狐》
1906年
絹布に墨、顔料
京都市立芸術大学芸術資料館蔵


渡辺与平(当時は宮崎与平)は長崎の出身で、京都に出てきて美術工芸学校で日本画を学びましたが、並行して鹿子木孟郎に洋画も学んでいました。資質そのものはどちらかというと洋画の方にあったように見受けられます。そうして洋画、日本画の両方の訓練を受け、最後に卒業作品として制作されたのがこの作品です。2匹の狐が手前から向こう側に向かって歩くという情景を描いたものですが、こちらには背を向けているので狐の顔は見えません。また、後ろから手前に歩く、逃げていくような構図はとても面白いものです。全体の画面の構成も非常に巧みに作られています。この人は卒業後、東京に移住し、結婚して渡辺与平と改名し、コマ絵という子供向けのイラストを描いて一世を風靡します。当時、コマ絵と言えば渡辺与平か竹久夢二か、という形で人気を二分するような形であったほどだそうですが、与平は油絵の世界にどんどんと進んでいきます。非常に才能のある画家でしたが、病気のために20代前半で亡くなってしまい、発表作品数が少ないこともあって、今日ではそれほどその名が知られてはいないのが残念なところです。

撮影:来田猛

2021年10月31日(日)更新

入江波光(いりえ・はこう)
1887年京都府上京区生まれ。1905年京都市立美術工芸学校卒業。1907年同校研究科在学中第1回文展に《夕月》が初入選。1911年京都市立絵画専門学校卒業。同校研究科修了後、同校嘱託として東京美術学校などで古画の模写を行う。1918年第1回国画創作協会展で《降魔》が国画賞となり、翌年から会員となる。1922年渡欧。1928年に国画創作協会が解散した後は画壇を離れ、模写研究に努める一方、仏画などの水墨画研究を行った。1918年京都市立絵画専門学校助教授となり、1934年から没年まで同校教授。1948年没。
村上華岳(むらかみ・かがく)
1888年現在の大阪市北区に生まれる。1907年京都市立美術工芸学校卒業。1911年京都市立絵画専門学校卒業。同校研究科に進み竹内栖鳳に師事した。早くから歌舞伎や文楽、浮世絵などに興味を示し、仏教美術にも深く傾倒した。1908年第2回文展で《驢馬に夏草》が初入選し三等賞を受ける。1918年、土田麦僊らとともに国画創作協会を結成。病気療養のために1923年芦屋へ転居。1927年には神戸の養家に戻り、1928年国画創作協会解散後は個展中心の活動を行った。1939年没。
渡辺与平(わたなべ・よへい)
1889年長崎市生まれ。旧姓宮崎。1902年京都市立美術工芸学校に入学。日本画を学ぶ傍ら、鹿子木孟郎に洋画を学ぶ。1906年同校卒業後、上京し、中村不折の太平洋画会研究所に学ぶが、翌年病を得て帰郷。1908年再上京し、同年第2回文展に《金さんと赤》が初入選。1910年第4回文展で《ネルのきもの》が三等賞を受賞。太平洋画会員となる。1906年頃から「ホトトギス」をはじめ、雑誌や新聞の挿画(コマ絵)の仕事をするようになる。これらのコマ絵は「ヨヘイ式」と呼ばれて人気があり、竹久夢二と並び称された。1912年没。