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20211011_おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)_共有
phase0(から1へ) 2021年8月5日。〈『おそらくこれは展示ではない。』(仮)〉という一文を、タイトルの様なものとして、テキストファイルの左上の隅っこに打ち込んだ時、プロジェクト胎動のきっかけとなったメールを受け取ってから286日が経っていた。そこからさらに2ヶ月ほどたった353日目の今日、10月11日、今まさに読まれているこの文章が綴られつつある。(と今まさに綴られた)、という書き出しが良いかもしれないと思いはじめたのは昨日か一昨日あたりのことだが、〈このプロジェクトは3ヶ月超の時間を要する。〉とした8月5日採用の表明(たねまきアクア08 p31に全文掲載)と同様に事実ベースでジャーナル風の出だしに通じる点が、うん、悪くない。 この文章は今回のプロジェクトにおける〈強いて言うならば、ひとつの体験としてはなかなか把握しきれないだろう時間のなかにつくられていくストラクチャー、期間中に生まれる様々な響き〉(と言っても意味論的な意味での響きだったり振る舞い・行為といった意味での響きだが)〈とその重なりや残響によってうみだされるコンポジション〉を文字通り(文字によって)体現し雰囲気が伝わる何かしらとなるべくして書かれはじめたのだが、それはそうとして、果たしてコミュニケートしていますか? やや具体的に言おうとしてみようとするなら、スケジュール(という名のスコア)が発表されるだろう、12月、1月、2月、3月を別々のphaseとして区切られ(と言いつつ、0から1の間に無数に存在し知り尽くすことなど出来ない数たちのように、恐らくずっと何かが連綿とあるのだろう、と思うが)、それぞれのphaseの出発点(つまり全体的に見れば通過ポイント)を設定し、私の探究と制作活動、これまでに培ってきたタクティクスを横断しながら紐解いてみるつもりであることも予告されるのだが、〈そう、譜面はある。〉し、それは「地図」のようなもので、おぼろげに「ルート」も描かれているかもしれない、〈もちろんプレイヤーもいる。アドリブが生まれ、予期せぬ飛び入りもあるかもしれない。コンポジションは自身を拡張したり、越えるための手がかりをも抱いている。そうであってほしい。有観客だろうが、ブラウズする人だけになろうが、そこに人が行きかい、厳密に言ってフリーではないがジャズではあるかもしれないそれを、おそらくほんの一部だけを聞く、あるいは目撃し、何かしらのタイミングとチャンネルがあえば体験する。〉のかなぁ、と想像はしているんだけど、果たして、相変わらず、それが何だ?と問われても、あぁ、まさにそのこと(だけ?)を考えているんですよねぇ、としか言えない気がしている、この先も、割とずっと。 そう言えば、このプロジェクトが胎動を始めた頃、コロナをきっかけにしてこれまでの活動を振り返ることに着手したわたしは、移動と整理の繰り返しを経た上でしばらくの間古い平屋の押入れに押し込められていたボロボロのダンボール箱、を引きずり出しながら、直接箱に油性マジックで書き込まれすぎてもう意味をなさなくなっていた中身のメモを読解しようとしたものの、結局のところは何だかわからないものになりかけているからあけて確認するしかなくなってしまったものたちを引っ張り出し、つまみ出しては、これなんでとってるんだっけ?とばかりに首をひねり、あーもしかしてあれかな!と横道にそれ過ぎはじめる、とてつもない長い道のりを感じながら、そもそもこの果てしない道の先なんてものがあるのか?先が無いなら「道のり」かどうかも知り得ないではないか?という、一段深まった風な謎に包まれたりしていて、それとは少し別のきっかけで意を決して、から随分とたった2021年の9月某日、過去の活動であれこれのハードディスクに分けられていたものを「全データ」集合!的にハードディスクに入れ直そうと思ったら、今時のコンパクトかつカラフルな5TBのハード2つに可愛らしく収まった「全データちゃん」みたいな10TB以下な私の20年に、なんだろなという可笑しみ、たったこれっぽっちなの?という一抹のやるせなさと、まーこんなもんか!というそこはかとない清々しさが、たぶん、いりまじった妙な感じに正直今も軽くうろたえている。 〈今度のコンポジションのマテリアルにはWeb、ハイパーテキスト、展示空間、イヴェント、パフォーマンス、その他に具体的なテーマとしてはアーカイヴ、それに関連して特に自身のこれまでの活動そのものをマテリアルとしたものにしたいと考えている。〉ことを体現するために早速こうして8月5日に書き送ったメールの本文(たねまきアクア08 p31掲載」)を引用、というよりは、思考を進め、上書きしている風に見えないかな?という考えのもと新たなテキストとして書いているわけだが、このプロジェクトに登場する諸々っていうのは〈それぞれは特段新しいマテリアルでもないだろう。ただ、私にとってのチャレンジは果たしてこれらをどうコンポーズし、自分を含むプレイヤー達に伝達するものとしていかに記述し得るのか、という点。そしてそれはほぼ同時にパブリックにむけられる。それはパフォーマンスなのだろうか?そんなパフォーマンスは可能なのか?という点。〉だろうなと変わらずに思っている、つまりはじめに立てた「おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)」という問いは、今やバリバリのvalidなのだ。(冬の風が寒い) 補足 phase0(から1)のためのテキストの締め切りは10月15日、357だったはずなんだが、Webの特性を活かし、今(10月18日、360)現在も最後の言葉は打ち込まれることなく、なんとなく最後の文章っていうのがあるとすれば、「このプロジェクトの開始(されていたこと)を告げることにする」くらいのことになるんではないだろうか?(と思っている) Last updated 2021.11.25.
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20211014_おそらくこれはスケジュールでありスコアでもある
おそらくこれはスケジュールであり、スコアでもある(のか?) おそらくこれはスケジュールであり、スコアでもある(のか?) phase0(から1へ) 0(414)– 京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品活用展「第十門第四類」を引き継ぐ(とは?)準備として、 ・12月11日以降:展示空間には「プロジェクト開始前」という胎動が持ち込まれ、その実プロジェクトは(とっくの前から、つまりphase0以前が存在する)開始されていて、0から1へと向かっているから、その間に得た(る)考察、本プロジェクトを体現する方法・技法に関する思索、実験を起点にしたハイパーテキストをマテリアルにWeb空間の試験運用、それを経つつさらにphase1へと向かう様がしれっと公開される。 phase1(から2へ)438– 様々な資料やリサーチを通じ、過去のある場面における音風景を再生するなどしてきた「THE WAY I HEAR」シリーズ、を通じて取り組んできた想像で行うリスニング、を生み出す音的な記述、に関する考察を起点に、 ・1月4日(第一火曜日):ハイパーテキストがWebにアップされ、空間が再公開され、1月11日の設営作業に関する発表がある。 ・1月11日(テキストアップ後@KCUA休館日):設営作業を実施する。 ・1月12日以降:変化した空間を受け、ハイパーテキストのアップデート(その過程を公開する?公開しない?を含めた)に関する方向性あるいは予感がWebにアップされる。 ・1月19日(設営作業後の火曜日):phase1(から2)に関してのレポートがアップされる。 随時オプション:公開されているテキストに関連した対談、あるいは関連する過去作の自己解説動画などがアップされハイパーテキストにリンクされる。 phase2(から3へ)467– 「あり得た(る)かもしれない」歴史を取り扱ったシリーズ作品や「WE MELT THEM AND POUR IT ON THE GROUND」など歴史の間から漏れ聞こえてくる小さな声に耳を傾け、過去を想像することにまつわる考察を起点に、 ・2月2日(第一火曜):Web上にハイパーテキストのアップデート版が公開され、2月7日の設営作業に関する発表がある。 ・2月7日(テキストアップ後の@KCUA休館日):設営作業を実施する。 ・2月8日~:変化した空間を受け、ハイパーテキストのアップデート(その過程を公開する?公開しない?を含めた)に関する方向性あるいは予感がWebにアップされる。 15日(設営作業後の火曜日):phase2(から3)に関してのレポートがアップされる。 随時オプション:公開されているテキストに関連した対談、あるいは関連する過去作の自己解説動画などがアップされハイパーテキストにリンクされる。 phase3(からどこへ?)494– 今回のプロジェクトは「何(だったん)だ?」と、最終的な考察をしつこく行う、が(あるいはそれによって)極力、断定的な振る舞いは回避、保留され、結論はどこまでも先送りされることが告げられる(んじゃないかと現時点では思っている)、だろうという考察を起点に、 ・3月1日(第一火曜):Web上にハイパーリンクのアップデート版(最終版になるかどうかは未定)が公開され、3月7日の設営作業に関する発表がある。 ・3月7日(テキストアップ後の@KCUA休館日):設営作業を実施する。 ・3月8日~:変化した空間を受け、ハイパーテキストのアップデート(その様を公開する?公開しない?を含めた)方向性がWebに書き加えられ、最終週へむけた準備が進められる。 ・3月15~21日(プロジェクト最終週):ハイパーテキスト、空間(も適宜)の両方が日々アップデートを行うかもしれない。ひょっとすると現場にmamoruが入り、滞在するのだろうか?関連動画はどんどんアップされ?積極的に公開される?(としたら、何だ?) ・3月21日(プロジェクト最終日)以降:全くの未定、ということだけは決定している。
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20211110_〔アーカイヴ〕の声を聴き、考察すること
注〔アーカイヴ〕の声を聴き、考察すること という命題を自分に立てた。そうするうちに自ずと、何かしら具体的なアーカイヴ(例えば京都市立芸術大学の収蔵品のようなもの)というよりもアーカイヴという考え方やそうすることのモチベーション、あるいはアーカイヴすることというのは何なのか?アーカイヴされ得るものとは何か?などといった思索の迷宮へと(早々に)入り込んでいった。 注の補足 ―20211021の思索より― アーカイヴという言葉に紐づける? On Archives and archiving, disappearing and being ephemeral エフェメラルであることは必ずしも消えることを前提としてはいない。 アーカイヴする行為が何かを残す試み、というよりも語源的にはアーキテクトとかそういARCHなんちゃらで「家」的なニュアンスとかが絡むことを考えると風が吹いて何かしらがころがって自然的に「建つ」家なんてものはないわけだから、意図があって残すっていうのは低く見積もっても方向性はあってるだろうし、なんなら設計図もあるし、少なくともその種みたいなものが生まれてこれる土壌は担保しようということはあるはすだ、とは思いつつその対象は放っておけば消えて無くなることや(これも自然的にというより対抗意図的に?という懸念を込めて)散逸して意味を喪失してしまう可能性が前提になっているのかもしれないから、生まれ得た(る)知の可能性を確保しておこうとしているとも言えるし、知というのを「(権)力」と置き換えると、実際に人類がやってきたこととアーカイヴの説明を現実に則した形で補完するものにはなると思うが、要はエビデンスだ、猫も杓子も!?エビデンス。(権力をもってるやつが作ったものがそいつらの行為の正当性を確保しうるのか?というそもそもの問いはここではおいておく。) 目に見える、読むことができる、ある程度、その「(オリジナルの)まま」風の装いをもった、疑われることの(少)ないやつら、はあたかも、えぇ、この先もずっと残るかどうかってことですか?あぁ、そういうのはねホント得意すっていうか余裕っしょ、と昔ながらに紙の上で、あるいは今や点滅するゼロイチの配列として物理的な肉体を超えたアーティフィシャルな永遠をひけらかしつつ、意気揚々と語りかけている、という見方はあまりに穿っているでしょうか? わたしは聴く アーカイヴの沈黙を ある言葉が発せられ/記されると、それ以外ーというニゲイトされた空間や存在が同時に立ち上がる アーカイヴされる何かは必ずアーカイヴされない何かを(も)立ち上げるんだ その境界はどこかにある、少なくともこの段落の上の段落を入力した、俺の、あの瞬間には存在したかあるいはその瞬間にその境界が作られたはすだ、無いものを記すことは出来ないからだ、にも関わらず、漸近することと超越すること以外に境界にアプローチすることはできない、(境界)点とか線というのは概念であって物理的な定量を持つ領域とは違うんだから、まさにそれこそが永遠に境界の遠さを決定づけているんだろう。だからあちらとこちらのような二分された世界は確定され得ない、つまり無い、つまり世界はやはり一つである、いや複数的にひとつの世界を成す?んだから、と言った時にニゲイトされた空間はどこで何を申すのか?と言えば逆相としての前言は強化されるだろうか? あるいは…
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20211111_資料な言葉
注の補足 ―2021.11.11にふと浮かんだ疑問から書き始めたメモより― 言葉そのものは果たして資料と成り得るのだろうか? これまでの活動にまつわる行為やそこから生まれでてきた何か、特に音や音的なものは空気を振動させ、音源みたいなものやそれを作るための試行錯誤「test_」とか「_test」というファイル名が含まれる無数の記述は世界の総データ量をほんの10テラバイトほど秘かに押し上げ、大体の場合においておそらくはエントロピーも増大はさせたものの、基本的にその実体は現象であることが多いので姿を消し、どこかに行ってしまった(=すぐには確認できない形態になった?)と考えるのが妥当だろう。と言っても、根本的に「消えた」わけではないと思うし「実際に消えてはいない」。なぜならわたしはそれらを何らかの形で覚えているし、それらのいくらかが確実に「今のわたし」に結実しているからだ。 メモの言葉に戻る。 と、言葉そのもの、とわたしが書いたのは、言葉には話された(る)言葉(は↑の音的なものと命運を同じくするのだろう、か?)、身体でパフォームされた(る)言葉、(あらゆる形態の)記された(る)言葉、何かが考えられた時に(その他のイメージなどと不可分な状態もありつつ、それでも言葉的な何かしらを経由するケースも含めて)使われた(る)言葉、想像された(る)言葉など、とこれらの順列・組み合わせパターン的なものやそれ以外、そして細かく言えばこれらを様々な形態で受ける側の言葉も在る(のかな?)としたら、話された言葉を聞く・見る側の言葉、身体でパフォームされた(る)言葉を聞く・見る側の言葉、記された(る)言葉を読んだ・触った時の言葉・・・的に・・・際限なく分化され得るし、そもそも、かつ、最終的にも区別不能であるという認識に基づいたうえで、何かそういう差異をズドーンと貫く「言葉そのもの性」みたいなものが「言葉」にはやっぱりあるんじゃないかな?なんてことを想像してみているからだ、が;わたしが「言葉そのものは果たして資料と成り得るだろうか?」と言った時の言葉というのはこういう理解の総体みたいなものをおぼろげにではあるが対象にしているのでanswerは無数に存在する、そういうことは知っている。 ひと~つ、そういうごちゃごちゃといろんな雑草や低木やツタ植物なんかが絡みまくってて、我々の侵入を阻むかのようなブッシュ的な理解の総体みたいなものをかぎ分けて、ふぅーっと見えてくる青空のよう、か・どうか・は・わからない・が・そう、考え・の・ひとつ・に、資料・に、なり得るだろうか?と言っているわたしが気にしているのは「言葉そのもの性」ではなくて、「言葉」が信用できるかどうか・なんだ。 だって誰かの言葉でしょ?誰かって信用できるのかな?ものすごいたっくさん考えてる人だッ!たとしても、ものすごく物知りだっ!たとしても、人類が想定出来得る最大限にフェアな人だっ!たとしても、いやあのね・みんな・がね、いやほんとに無数の人達だよ、が信用した誰かだっ!たとしても・さ、誰か、でしかないわけですよね。究極のところ・・・って、そこを疑いだしたら何も成立しなくなる?なら何も成立していないのかもしれない、ね。と、見えてきた青空は・瞬く間に曇り、雲行きが怪しくなり、突風が吹くなり、カミナリ、落ちる、yeh。So 言葉そのもの、ってのは、そうね、そもそも信用できないかもしれないよ、という「言葉」をだね、最終的に何が、誰が、(何のために)、確実(なんてないよと嘆くなよ俺)に担保するのかねぇ。と問う、中、空、の、体。なっぞ・謎ですね。で、もちろんこれも・言葉・俺も・誰か。とは言っても、アーカイヴにおける核心である言葉を疑うと元も子もなくなるのは承知の上でも、やはりこうして一回は考えて、おかないと。
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20211211_phase0インストールへの呼応
壁1 これは 壁2 この文字を入力している時点においては 壁3 まだ見ぬ 壁1 phase0(から1へ) (1, 2, 3の順に) あるいは (あなたの目の前にあったはずの) 展示『第十門第四類』が インストールされたと告げる 昨晩(12月10日)届いたメールから 漏れ聞こえてきた 予感、 への期待 から来る、 未だ行き先を知らぬ 呼応、 が、 はじまる、 前、 phase0(から1)と、 歩みを進める、 言葉。 (背景に流れるのは、超たまたまだけど最高に“ÌFÉ - House Of Love (Ogbe Yekun)からのSolar Power · Damon Locks · Black Monument Ensemble。yeah everyone tune in please QRcode →)というGabriele Poso with Dodi Paleseによるミックス” from WORLDWIDE FM、☆QRコードを含むこの()内の言葉をプリントアウトして壁に貼る?☆ サイレンス・間をおく 2 ちょっと待った。 3 なんでこのわずかの間に餅を作ることになったんだ? サイレンス・間をおく 1は餅のまま 2これは、この文字を入力している時点においては、まだ見ぬphase0(から1へ)あるいは展示『第十門第四類』がインストールされたと告げる昨晩届いたメールから漏れ聞こえてきた予感、への期待、から来る、未だ行き先を知らぬ、呼応、が、はじまる、前、そこへと、歩みを進める、言葉。 3 と書いて、なんでかボールドにしてフォントを大きくしてみてから 3 あ、そうか「第十第四」はじまったんだったら、FBとかインスタに「こんなプロジェクトはじまるよ」のアナウンスいれようかな、とはいえ今時(昔も?)はこの手の作業がどのくらい報われるのか実際はわからないけど、とにかく・・・ サイレンス 2【52分前 according to FaceBook I posted 3 images and wrote 3 ”わかりづらい、という言葉はなるべく使いたく無いのですが、この「第十門第四類」という展示を皮切り(phase0)にして「おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)」という思考か試行か錯誤か実験か?のようなプロジェクトを3月終盤まで展開します。結果的にどうかということなので、断定はできませんが、できないとしてもおそらくちょっと珍しい状態?のプロジェクトではないかとは思います。近日詳細出てくると思います。が、わたし(だけ)の作品やプロジェクトではなく、アーカイヴにまつわる考えやものなどをきっかけにして、展示空間、ウェブ空間、紙空間、文字空間、という言葉があるのかしりませんが、関わる人たちがそれぞれの持ち場にて、同時並行も交錯もしつつ、思索と試作を行うライブで重奏的な(ええ、ええ、奏です層でなく)プロジェクトにはなっているかと思います。という、様な、調子、で、リズムにのせて、今後も時々アナウンスします!お近くの方はぜひphase0の会場に! 2 ”今現在FBはいいね7。インスタ❤12】 3 ・・・っていう投稿をしたんだよ、そしたらなんだっけ、 2 あ、そうか今回のおそらくチームの皆にメールもしないとってことでGmailをひらいて、 3 いや、こっちが先か、どっちでもいいか、そうか、同時に!だ、そうだ、 2, 3 餅だ。 サイレンス 1, 2, 3のサイクル そうか、なんでか、しらないが、この家にはなかったんだった、 餅米以外に。 だから 出かける前に 確実に 何かを腹に入れないと、 だって5時間半くらい運転するからね今日は、 「第十第四」見に行くんだからさ京都まで、 ってことでもち米を洗って炊飯器にかけたのよ、 朝起きて。 12時半に予約してね。 だからこのテキスト書いてて、 FBとか、メールとかをぐるぐるまわるようにして書き進めてるときに、 ピピッ って台所から聞こえて・・・ 炊飯器の蓋をあけたらさ、 粒の際立つ美しいお餅米様。 その時に「餅米なんだから餅だろ」って ピピッ ときたわけ。 いやでも餅なんてついてる場合なのか? って当然思うよね現代日本では。 ところが、 餅だろ、とね。 サイレンス しかし、やったことなんてないですよ、 どのくらいないかっていったら 炊飯器の釜をさ取り出して、 麺棒(綿棒はさすがにない、ない)で直接もち米をぐりぐりやりだした! くらいないわけで、 机こわれるか、と思ったもんで、 釜を洗面台にうつして、 いや釜痛むなってことでスポンとお餅米様をステンレスのボールにあけてみた、 あ、そうだ、 なんか打ち水みたいなのやるよなって思ったので ピピッ と水をときどきかけながら やっぱりこれだろ麺棒(いやだから綿棒じゃないって〈Macの変換につっこんでます、念のためto be clear)でグリングリン。 【現在FBはいいね10。インスタ❤14。微妙にアップ】 サイレンス 10分くらいやっていくなかで、 洗面台じゃ力がかかりづらくなってきたので ヨガマットの上にあぐらをかいて、 両ももと両すねのあいだにできたダイアモンドの中へ ステンのボールをplaceしたら、 綿棒(いや覚えようや)じゃなくて麺棒で力をグイグイかけていくこと数分、 これは紛れもなく、あんがいできるもんなんだ、餅。 こうして、 お餅米様はお餅様へと変貌をとげ、 すさまじくいい香りを放ちながら、 さてどうやってこんなモチモチのものをまるめるのか? という疑問を残したわけなんだけど、 それはもちろん米粉ですよ。 (実際、告白するとこの時に本当はネット検索したかったのは事実。だし、いまこれ書きながら思ったのは米粉じゃなくて上新粉じゃない?だってお餅米様やぞってことなんだけど、[もち 丸める 粉]的な検索の結果Yahoo知恵袋的なアンサーとしては「餅とり粉」っていうのがあるよ、と、初めて知りました、よ、と、第二アンサーは片栗粉とかコーンスターチ、昔は米粉も使ったって書いてあるしべつにみんな正解、それぞれのスタイル、目的果たせばそれでいいんじゃないかい?) あとは長年の料理人(じゃない人)としての勘が働き 手は濡れてないとだめなんじゃないかい?と思い 別のプラボウルに水をはったわけ。 【現在FBはいいね11。インスタ❤14。ほぼ横ばい。土曜日だからみんな出かけてるのかな】 サイレンス 水を濡らしてお餅塊様をお餅個別様へと手でしぼり切る、 ことの気持ち良さ、 これやったほうがいいねもっと。 想像以上にたくさんの米粉がついてしまうけど、 いい塩梅でころころとまるまるとしていく。 5センチ大くらいのお餅個別様が 10−12個くらいはできたでしょうか、 砂糖醤油をささっと作り、 焼き海苔を巻いてお餅個別様を2個たべたらもう限界、 で、 3個目を砂糖醤油皿にのせたところで、 載せたところで、 あ、そうだ テキスト書いてたんだった ということであの画像なんですよね。 ふぅ。 【現在FBはいいね10❤️3。インスタは❤16。微増】 サイレンス いま読み返して愕然としたけど、 この餅のくだりが 未だ行き先を知らぬ呼応がはじまる前、そこへと歩みを進める言葉。 だとしたらやばいよね。 とはいえ、 時期的(12月11日ですね今日は。ちなみに現在地では晴れ。日光が直接入るこの部屋の室温はなんと25度以上で窓も扉も全開でTシャツですわたし。)な解釈に沿って言うと、 まぎれもなく行き先(お正月)のはっきりした呼応(もちつき自分の家でもできるやん)ではあると思うのですが、 1月4日からはじまる phase01(から02へ)に繋がるのか?というと それは 胃袋から何かが吸収され、 どこかで血に変わり、 あるいは血が作られるのを助け、 そう脳におくられて、 たぶんシナプスを駆け巡る何かしらと繋がっている! と言う意味において繋がってる、 1 いや 2 はっきり言って 3 繋がりまくっている。 1 そう 2 そう 3 そうやとおもうねん! 1 HAPPY NEW YEAR 2022(*をコピペして全画面表示) 2 HAPPY NEW YEAR 2022(*をコピペして全画面表示) 3 HAPPY NEW YEAR 2022(*をコピペして全画面表示) 3 という意味において! 2 餅は、 1 予感は、 2 余寒(2022年の2月4日以降)の頃にはとうにフェードアウトし、 3 次なるムーブメントがフェードインしているんだろう 1 という 2 ミクスフェード 3 が 3 る 2 こ 1 お サイレンス 3 ? 2021年12月27日17:57 選外ですが、mamoruさん、A Happy New Yearにいかがでしょうか? 一瞬3画面全部トラとか
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20211225_池田雲樵_蘭図(筆法)_タグ文
蘭図、とあるわりに、というかあるのに蘭は描かれていない。そういうものなのだろうか?画面の左下からひょろりと右上へそれぞれの方向に伸びた3本の葉、というか草というか、すすきの葉のほそいやつみたいな、というか、とにかく余白たっぷりのこの画面。(筆法)とあるので、そこだけを伝えよう、という手本なのかもしれない、が惹かれる。 3という数はある種の完全数として古今東西語り尽くされ使われたおされているので踏み込みにくい雰囲気をも漂わせているとは思うのだが、あえて3の話をしたい。3は関係性が一気に複雑化しはじめる数だが、昔ひとりで即興演奏をやっていたころにいかに3の状態を作るか、というのを考えループサンプラーを手にとった。リアルタイムに演奏しているわたし、ちょっとずれた少し前のわたし、もうちょっとずれたもう少し前のわたしみたいな。長時間(当時最長20分くらいだっただろうか?)のループ録音・再生が可能な機材があって、それを愛用していた。これはもう感覚以外の何物でもないが、あるフレーズを伸び縮みさせたり、欠けさせたり、歪めてみたりしながら、時間の中にならべてみるとそれ自体が微細な変化をともなうループ構造をもっているわけだが、それを自分の記憶や把握する能力を超える時間の長さのループにするのを好んだ。そのループ1を聴きながらまた音を出すわけだが、それをループ2にする、当然別々の時間周期でループするので、組み合わせ方は変化する。これももう感覚以外の何物でもないが、案外人間の脳ってこの程度なら把握してしまう。言語的にというより、ぽっかり全体を「はい、わかりますよ」みたいに。そこで3だ。第三のループかと思わせておいてリアルタイムで時間のフレームを持たないわたしが加わる。ループ1っぽい音やループ2っぽい音もだすことができるし、どっちみちループ1も2も「わたし」風全開なため、何をやっても統一感が否応なくある、ので聴く人(の脳)はもうどの音がループ1、2でリアルタイムなのかを追うことに意味を感じなくなる、その果てに、もうね全部で「おと」、みたいな一つのうごく塊(よく言えば命)として聴こえてくる、かもしれない、と思っていた。ちょこちょこリアルタイムの俺はループ1や2もさらに上書きし変化させたりもするので、20分もこの行為が続けば、本人を含めだれも全体を把握することができなくなる、たった20分程度一人の人が行ったこと程度で、ですよ?それが世界の素晴らしさだと思っていたし、そこに気持ちよさがあったし、この上もなくそういう複雑な状態を好んでいたし、いまもそうです、ご覧の通り。 たぶん(筆法)として生み出された、この3本のひょろりとのびた葉とその余白による「風景」があるように響きによって生み出される景がある。そして思うんですよね、理解できることなんてほんのわずかだ、と。考えることや言葉にすることはだからって言って無効だとか無意味だとかにはならない、でもいつも思うのは、理解できないこと(で)も経験(は)できるということ。
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20220102_phaseなんちゃらに関する表記変更について
phaseなんちゃらに関する表記変更について まず[おそらくこれはスケジュールであり、スコアでもある(のか?)]において、また各所で〈phase1(から2へ)438–〉の様に表記されていたphaseなんちゃらの表記に関して〈phase(0以前から)1(から2へ)438–〉という様にする。 今思えば、最初にスコアを書いて(2021年10月14日)からわりとすぐ(2021年10月18日)に『ここで言っておかないといけないのは実はここで書かれている内容は厳密に「0」地点や直後のことには触れておらず、直接このスコアには動きが書かれていないプレイヤーの存在や行動にも触れていない、という意味ではパート譜なのかもしれないし、ここに書かれている以前という時間がもちろんあって、そこがものすごく大事!ということだ。2020年10月23日のメール(が「0」の超直後と言えるはずだが)以降に交わされたメール、チャット、オンライン&リアルミーティング、プレイヤーそれぞれの思索や試作などが行われ(た)る「0」直後から激しく細胞分裂を繰り返し、こうして文字になってくるまでの時間にこそ、このプロジェクトの全てが詰まっているとさえ思ったりもしますが、実際のところ・・・どうなんだ?』というコメントをしており、今回の表記変更へとつながる思考の予兆はすでに表明されていたのだ。(と、思っているのは2022年1月2日現在くらいの私だ。念のため。) さらに詳細を記してみたいと思うのだが、2021年12月16日8時6分に『 プレイヤーのみなさま、現在、mamoruは丸亀の現代美術館で18日土曜日オープンの別の展示インストール(のための作品をまさに撮影し終わり、編集にこれからはいるところ・・・つまり・・・ふんばり系ぎゃんばり)中ですが、@KCUAのプロジェクトに関して起こったこと、起こっていることが面白く楽しく支えになっています。ほんとうにこのプロジェクト楽しいです。それで眠らぬ脳みそがぐるぐると考え続けているのですが、少しシステムに改良が必要な気がしています。システムというか考え方、かな。 これまではphase0(から1へ)の次のphaseは1(から2へ) という考えでしたが、 むしろphase(0から)1(から2へ) そして おそらくphase(0から)2(から3へ) という具合に、その時々の現時点以前のすべてのphaseが反響していくものになっていくんだろうと予感しました。なのでそれに準じてスケジュール上の表記なんかを変えていければ、と思います。』というメッセージをプレイヤー各位にコメントし、その直後8時7分に(上のコメント投稿の1分後)『いや、むしろ(0以前から)かな』とコメントしていて、このプロジェクトとは関係のないところでドライヴのかかった脳によってこのプロジェクトにおけるphaseというものが思考されたことがわかる。細かいことだとは思うが、相当に流動的な時間の幅(時間的前後を含み得る)と一定の中心時点を言葉で同時にあるいは一気に表記することの試みだと言える。
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20220103_Copy of 20211014_おそらくこれはスケジュールでありスコアでもある
おそらくこれはスケジュールであり、スコアでもある(のか?) phase(0以前から)0(から1へ) 0(414)– 京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品活用展「第十門第四類」引き継ぐ(とは?)準備として、 ・12月11日以降:展示空間には「プロジェクト開始前」という胎動が持ち込まれ、その実プロジェクトは(とっくの前から、つまりphase0以前が存在する)開始されていて、0から1へと向かっているから、その間に得た(る)考察、本プロジェクトを体現する方法・技法に関する思索、実験を起点にしたハイパーテキストをマテリアルにWeb空間の試験運用、それを経つつさらにphase1へと向かう様がしれっと公開される。 レポート phase(0以前から)1(から2へ)438– 前のphaseで進め、深めた考察と、様々な資料やリサーチを通じ、過去のある場面における音風景を再生するなどしてきた「THE WAY I HEAR」シリーズ、を通じて取り組んできた想像で行うリスニング、を生み出す音的な記述、に関する考察を起点に、特に各プレイヤー間におこっているインタープレイとフィードバックの記録をどうするのかという点に留保しつつ、 ・1月4日(第一火曜日): mamoruよりハイパーテキストがGoogleドキュメントにアップされ、現時点以前のphase中のやりとりなどを受けた上でのプロジェクト・アップデートがアナウンスされる、空間が再公開され、1月11日の設営作業に関する発表がある。 ・1月11日(テキストアップ後@KCUA休館日): 設営作業を実施する。他のプレイヤーの作業も上の期日を目安にすすめる。 *実作業が間に合わない場合は、少なくとも各プレイヤーはそのリアクションと今後試そうと思ったことと意図などを共有する。 ・1月12日以降: 変化した空間を受け、各プレイヤーからフィードバックがあり、次のphaseに関する方向性あるいは予感が交換・醸成され、随時、空間・紙媒体・Webにアップされることもある。 ・phase移行前後にphase(0以前から)1(から2)に関してのレポートがアップされる。 phase(0以前から)2(から3へ)467– 前のphaseから続く思索、試作、思考、試行、錯誤、実験、考察を起点にしつつ、実現・実装にいたっていないアイデアをなんとかして、空間、紙媒体、Webに反映させることを目標に、 ・2月1日(第一火曜): mamoruよりハイパーテキストがGoogleドキュメントにアップされ、プロジェクト・アップデートが伝達されるかもしれないが、必ずしもハイパーテキストのアップデート版が公開され、2月7日の設営作業に関する発表があるわけではない。 ・2月7日(テキストアップ後の@KCUA休館日): 設営作業を実施する。 ・2月8日以降: 一連の変化を受け、各プレイヤーからフィードバックがあり、次のphaseに関する方向性あるいは予感が交換・醸成され、随時、空間・紙媒体・Webにアップされる。 ・phase移行前後にphase(0以前から)2(から3)に関してのレポートがアップされる。 phase(0以前から)3(からどこへ?)494– 今回のプロジェクトは「何(だったん)だ?」と、最終的な考察をしつこく行う、が(あるいはそれによって)極力、断定的な振る舞いは回避、保留され、結論はどこまでも先送りされることが告げられる(んじゃないかと現時点では思っている)、だろうという考察を起点に、 ・3月1日(第一火曜日): Web上にハイパーテキストのアップデート版(最終版になるかどうかは未定)が公開され、3月7日の設営作業に関する発表があるとは限らない。 ・3月7日(テキストアップ後の@KCUA休館日): 設営作業を実施するとは限らない。 ・3月8日以降: 変化した空間を受け、ハイパーテキストのアップデート(その様を公開する? 公開しない? を含めた)方向性がWebに書き加えられ、最終週へむけた準備が進められるとは限らない。 ・3月15–21日(プロジェクト最終週): ハイパーテキスト、空間(も適宜)の両方が日々アップデートを行うかもしれない。ひょっとすると現場にmamoruが入り、滞在するのだろうか? 関連動画はどんどんアップされ? 積極的に公開される?(としたら、何だ?) ・3月21日(プロジェクト最終日)以降: 全くの未定、ということだけは決定している。
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20220103_プロジェクトアップデート
phase(0以前から)1(から2へ) 2022年1月3日早朝 初夢ならぬ初ひらめき。前phase=京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品活用展『第十門第四類』の公開にあわせて顕わになった全ての要素、とそこからプレイヤー間に生まれた一連のインタープレイとフィードバックがようやくあらかた餅とともに喉元を通り、それらへの理解が言葉となりそうな「予感」を得ました。 ★アップデート内容に関して これまでのところ(暫定的に)自分の活動の全体を時系列に沿って徐々にマテリアル化していく感じでプロジェクト予想図を描いていましたが、〔アーカイヴ〕の声を聴き、考察すること」から現在も起き続けているプレイヤー間の興味深いインタープレイとフィードバックを観察し記録すること、またそれに端を発するプロジェクトそのものの変化を深めることに注力したい、という動機と、その他思うところ*もあり、『THE WAY I HEAR』シリーズをひつとの主要なマテリアル・軸にしたいと思います。これに伴いphase(0以前から)2(から3へ)の意味合いとスケジュール感が大きく変化します。ご注意ください。 *思うところ 今から振り返れば、即興演奏や日用品や日常的な仕草を組み替えて生まれる響きなどを扱った『日常のための練習曲』を含め「実際の音」を扱っていた初期の活動から、「言葉」をマテリアル、起点に「想像的に聴く音」へと主眼を移していく過程で生まれたのが『THE WAY I HEAR』というシリーズだった、と言えると思います。 「過去に誰かが何かの目的で綴った言葉」をリスニングするところから「音的なもの」を「採集」することをかなり意識しはじめたこと(例えば・・・XXXX年X月X日 雨 という記述からは雨の音が想像でき、その時の気象図が手に入ればその雨のディテールに耳を澄ますことができるだろう、などなど)が、それまでとそれ以降をわける重要な分水嶺になっているかな、と思うのですが、その音的なものの「採集・標本」的なニュアンスのものも、もう少し今回のプロジェクトで扱えるかもしれません。 今回、8年塩漬けにしていた府中市美術館でのパフォーマンス映像データを発掘し、藤田さんの助けも得つつ、蘇生させ、編集し、再生にまでこぎつける過程で、久々にそれらの「標本」を見返す気分になったこともあり、どう使うのか、あるいは使わないか、も含めぜひとも検討していただきたく一部を@KCUAに送ろうと思います。もしかすると1Fのケースや絵手本などと取り替わったり?また別の方法で現状に侵食する可能性があるでしょうか?という意味では空間にも、もしかすると影響するかな、と思うところです。 その関連で言えば、「言葉」ではないのですが、空間に吊るされてる飛行機の紙模型も同シリーズより『THE WAY I HEAR / LAKWATSA, Manila 2013』を展示した際に「音的なものを再生させるもの」として制作したもので、何故かこの紙模型が最初から空間に飛んでいたり、その画像が今回のプロジェクトのメインビジュアルになっていたりすることも示唆的であったのか?とすら思う、なんてもっともな感じにも書いておきます。 感覚的な事ですが、この時期の資料、考察、実験を紐解くなかで「一時停止したもの」に触れる感じがする、という実感も何かしら今回のアップデートに影響していると思われます。自分の活動の一部であったものなのですが、すごく距離があるもの、でもいちいち全部いろいろ覚えてはいる。どういうわけか、それ以降のものだと「まだ終わっていない感じ」が強くてアーカイヴに接しているという感じがあまりしない。時間的には確かに現在以前の何かなのですが、このことも気になっています。 付け加えて言うなら、なんとなく『第十門第四類』の絵手本に接するうちに、今の私にとっては教則本のような『THE WAY I HEAR』シリーズというものがしっくりくるということなのかもしれません。 とは言え、おそらく今後思いついて書くだろうテキストに関してはそのあとはじめたシリーズに関する考察、特に現在のもの、が当然ながら混じってくるとは思うのですが、今日のアップデートとしては「軸」をいったん『THE WAY I HEAR』にしてみようかな、ということになります。
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20220108_とうもろこしの桂剥きにしたものを食った経験が橙(だいだい)の種をさささって取ってしまう方法を生んだ
I corn とうもろこしを桂剥きにしたものを食った… (ことがありますか?)⏎ (いたく感動するほど食べやすい!)⏎ 経験が→ 橙(だいだい)の相当な数の種を… (うまく、というのか、一風変わった?というのか、)⏎ さささっ!と→ 取ってしまう→ 方法(の模索)を生んだ⏎ そう、もう一度言う…と→ とうもろこしを桂剥きにしたものを食った経験が 橙(だいだい)の(相当な数の)種を さささっ!て取ってしまう方法を生んだ⏎ そんなお話、あー、あ→ STAY TUNED→ あー、えー本日はご清聴ありがとうございます⏎ いや、技巧がどうこうって話じゃなくて→ なんというか、発想? なんというか、発想? なんというか、発想? いや、思考かな? いや、思考かな? いや、思考かな? もっと言えば思想? もっと言えば思想? もっと言えば思想? いや、さすがにそこまで言うと… 妄想? 妄想? 妄想? でもあえて言えば… 要は 必要 必要 必要 つまり、とうもろこしをがぶ!っといった時に→ 歯の隙間に挟まるあれのあの感じ→ が、もう嫌だなって⏎ いや、でもさ、世界には→ そこをなんとかする方法?→ きっとあるよ⏎ っていう希望? を持つ、っていうスピリット? で、この世界に問う? どうなんだ世界! どうなんだ世界! どうなんだ世界! あれのあの感じ なんとかならないの? なるんじゃないの? きっとその思考が後押しする 試行が錯誤したあげくに 「とうもろこしは桂剥ける」 っていう発想、が生まれ得る→ っていう希望、も得る→ なんてことはある⏎ というのは方法である→ というのが発想である→ と同時に希望でもある⏎ それは 可能だ という 世界はある そんなお話、あー、あ→ cornからはじまる 思考は続く⏎ もっと言えばその必要があって→ それは→ 紛れもなく今まさに⏎ はじまろうとしている… そんなある日、俺は… 橙(だいだい)を切ってみたんだ そしたら種だらけだった あきらめるの?は簡単すぎる(自問自答)→ 手でほじるの?は嫌だから全部捨ててしまえ(自暴自棄)→ そのまま食べたら健康に良いかも?(自己暗示)⏎ いや、私は切る そして、切りとる そして、剥く 皮を剥く ことで種を除け 実を得る あぁ、そうか そうだったんだ そうそうそう おもむろに あるいは勝手に 私は 理解した そうだ これは とうもろこしの桂剥きを知ったことで わたしの発想が変化し 生まれた 橙(だいだい)の種を さささっ!と 取ってしまう方法 学ぶとはそういうことだ 勝手に やっちゃうんだ 絵手本にも同じ様なことが言えるだろう(か?) 絵手本の作者にとっては そこに描かれた内容を描くことが そもそもの目的ではなかった(はず?)→ 描かれた内容を誰かが真似て描くこと→ そのことを通じて生まれる経験的な理解⏎ を経て、別の何かを生み出すこと それが目的? つまりさ お手本は道なの(かもしれない) 道ってたどっていくと→ 道の先へと通じていって→ どこか別の場所へ出るじゃない?⏎ それってとうもろこしを桂剥く時にも言えることで→ と言いつつ、はっきりとは言えないけど→ これは何かのPART1(だと思うんですよ)⏎ 橙(だいだい)の種のことだけではない→ と言いつつ、はっきりとは言えないけど→ 紛れもなくまだ終わってない感じがしているから→ そう、思考は続く→ THANKS FOR TUNING IN→ アー、アー、アー⏎ アーカイヴよ→ 俺の話は→ お前となんらの関係もないかのようだ… が⏎ どうだろう?→ アーカイヴよ→ お前は経験を残すことができるか? お前は経験を生み出すことができるか? お前は経験を伝えることができるか? 一人の人間のライフスパンを超えて? いや、 わたしが問うているのは アーカイヴではなく もう少し還元された「記述」に対してか? という気もする どうだろう? 記述よ お前は経験を残すことができるか? お前は経験を生み出すことができるか? お前は経験を伝えることができるか?
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20220117_おそらく
2022年1月17日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「おそらく」という言葉に「恐らく」という漢字をあててみた、その途端に「ほぼ間違いなくその通りだと(は思いつつもやっぱりその通りかどうか不安なんですが)・・・思います」と言うか細い声を聞いた。 「あれ、もしかして・・・おそらくさんですか?」 「おそらくさん」は前もって自己防衛しつつも、言わずにはいられない、自らの見解をリミットギリギリまで明確に表す、と同時に自分の首をあとから締めることになるかもしれない断定は避ける、ついでに自らの想像が及んでいなかった別の可能性が提示されたときに「そうとも言えますねぇ」と言う事で発言者の否定を余儀なくされる自体を免れる様に事前に配慮していることがわかる(気がする)。斜め横からやや穿てみるとそういうことになるかもしれない、でもね、他者への配慮=わたし以外の可能性を忘れていない姿勢であったりもするんだよ。 だから(もう一回言う) 「おそらくさん」は、(自らの)意見を言うのと同時にそれ自体をがっちり留保する態度も示すことで他者分の「おそらく」的スペースを残している、という離れ業をやってのけている(気がする)。会議中やたらにパワープレイをしかけ結論を大ナタのごとく振るってくるマッチョに対してしばらくのあいだ身を潜められるくらいの穴を「おそらくさん」はささっと掘ってしまう。ポリティカル・コレクトネスを乱用し多様性という言葉を誤解したままの最近多い細マッチョに対しても「おそらくさん」は穴を掘る。そして、その穴を必要とする誰かに提供しつつ「おそらくさん」自身が一種の隠れ蓑となり覆ってくれる。一過性のもの、テンポラリーではあるが、本格的なシェードだ。そう思うと「おそらくさん」は相当にコンテンポラリーな生き方をしていると思う、なんて考えていた矢先、 「おそらくさん」は唐突に問う「例えばさ、資本ってなんだろう?」と。 おそらくそれは・・・とね、薄ぼんやり以上に思っていることなんだけども、それが中心の社会に生きていて、社会はそれを中心に動いている。らしい、くらいの実感しかないままに今このときも皆が「社会」を生きている、というかそれ自体を成している(らしい)が、そんな事実がまだまだ風潮だった(と思われていた)頃に、抵抗を試みようとした最後の世代もいまやいこの世界を去ろうとしている(のだろうか?)。レジスタンス、という言葉が近代なのか前近代なのか、あるいはポストモダンにおいてもしばらくは有効だったのかは知らないが、いずれにしても今現在、その言葉には時代錯誤感がすでに蔓延していて、それは防止の対象ですらないくらい存在感が無い、抵抗するもなにも一部となって無化して久しいのだから(かな?)。そして、言ってみればそんなことは思考でしかない。だから実感がない。いま生きていく中で実感をもてることの一つはサバイバルじゃないか?と思う。世界はそもそもわからないところだし、知らない土地と複雑に思える時代に生まれ(というか意思ではないから…生み放り出され?)ていまここで生きよと言われている(んだよたぶん実際に)みたいなもんで、そんな中で急いでまとめた理想だとか目的だとかというようなものが完全であることはまーあり得ないので、それを軸に考えてみたところで「世界」が急に変わるのか、あるいは変えられるのかもわからない。なので、ともかくも「この世界」を生きるしかない。それ自体はノーチョイスなのでそういう意味で大事な力は、レジスタンスではなくて、レジリアンスなんだと思う。敵は本能寺には居ない。(なんのことだ?)サバイバルする態度と方法を研ぎ磨け。そうすることこそが、わずか数十年、長くて百年ちょいのライフスパンにおいてはアンカーのように生きられる時間を落ち着かせてくれるのだから。結局の所、どこまでいっても世界は複雑なままで、わからないものなのだ。おそらくね。それを厭世でもなく、否定でもなく、逃避でもなく、破壊でもなく、迂回でもなく、しっかりがっちり留保する。それでいいじゃないか・・・ 2022年2月24日ロシア軍がウクライナへ侵攻を開始した。そして3月2日執筆現在の今も状況は好転してはいない。わたしは「おそらくさん」がレジリアンスについて、その本質はしっかりがっちり留保する態度だと思う、と語りかけたことを切実な想いで思い出している。
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20220117_ではない
2022年1月17日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「ではない」という言葉を眺め考えながら、そういえば5, 6年前によく「AでもなくBでもない/neither A nor B」という二連否定(?)によって書かれた文体が流行った(少なくとも自分の周囲に流れ込んでくる文章の中には多く見られた)なぁ、なんてことを思い出していた。苦肉の策感が漂いつつも、「Cだ」とも断言できない、言い得ない何か、どう提示してよいのかわからない意味的領域を指向し思考するため、2つの言葉で挟み撃ちにしながら、じわじわとある一定の言語的なエリアに追い込みながら、接近し、なんとかして捉えようとする態度に共感するところがあった。 それでは、「(A)ではない」という単否定はどうだろう?単純に言うとNot A、つまりAではない(全て)=A以外(の何か、あるいは、のどれか)ということになる(だろうか?)。ちなみにこの場合Not Aの応募対象は〈世界マイナスA〉くらいあるので、「A以外」の候補可能性はあまりに膨大で想像のしようが無い、ようにも思える。だがここで重要なのはAがある程度実はNot Aを特徴づけているという点だ。Not Aは何でもいいわけじゃない。そう、Not AにとってはAは欠かせない一部なんだ。不可能=Not 可能という単語がimpossibleで、im+possibleで、不・可能なのを考えてもわかる通り。Not AはAと密接に関わりがある、あるいは案外灯台下暗し的な隣接地帯にNot Aは見つかることも多いのではないか?? 2022年2月4日にわたしは2021年10月21日に書いた以下の文章を思い出していた。 【ある言葉が発せられ/記されると、それ以外ーというニゲイトされた空間や存在が同時に立ち上がる アーカイヴされる何かは必ずアーカイヴされない何かを(も)立ち上げるんだ その境界はどこかにある、少なくともこの段落の上の段落を入力した、俺の、あの瞬間には存在したかあるいはその瞬間にその境界が作られたはすだ、無いものを記すことは出来ないからだ、にも関わらず、漸近することと超越すること以外に境界にアプローチすることはできない、(境界)点とか線というのは概念であって物理的な定量を持つ領域とは違うんだから、まさにそれこそが永遠に境界の遠さを決定づけているんだろう。だからあちらとこちらのような二分された世界は確定され得ない、つまり無い、つまり世界はやはり一つである、いや複数的にひとつの世界を成す?んだから、と言った時にニゲイトされた空間はどこで何を申すのか?と言えば逆相としての前言は強化されるだろうか? あるいは…】 ここでわたしが漸近しようと試みた境界はまさにどこにNotがあるのか?という問いではないか?Aをアーカイブされる何かとし、Not AでもってNotを挟み撃ちしてみたらどうなるだろうか? Neither A nor Not A =アーカイヴされる何かでもなくアーカイヴされない何かでもない。 このアクロバティックな文章を記すと同時に、わたしは2021年12月11日にその一つの可能性が着地しうる現実が存在すること、それはやはりアーカイヴのすぐ隣に転がっていたことを知ったときの事を思い出した。phase(0以前から)0(から1へ)でもあった『第十門第四類』でにわかにフォーカスがあてられた収蔵品の「割愛」たちは、まさにNeither 収蔵される品 nor Not 収蔵される品であったのだ。さらに、同じく忘れられていた引き出しの奥から引っ張り出されることで、この3重否定形によって挟み込まれた不可能に思える意味的ニッチはそれ以上の何かを体現していた。おそらくあの割愛たちはアーカイヴではない(としたら、何だ?)。
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20220121_(括弧)
2022年1月21日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「(括弧)」を眺めていて思った。(括弧)が好きだ。 (括弧)をつけるだけで別の存在、別の時間、書かれた文字通りではない世界の可能性が立ち上がるから。複数形の世界を信じ、生き、体現しようとしているわたしにはその状態こそがまぎれもない現実だし、自分以外の世界と関わろうとするときに必要不可欠な理解だとすら思える。正直(括弧)のない世界なんて息苦しくて想像もできない。 (括弧)を駆使すると言葉・音に厚みを加えたり、響きを複雑にしてくれる(と思う)←と言った時にきっとあなたの脳内では、ほんのすこし「複雑にしてくれる」がソフトタッチになったのではないだろうか?つまり pp(ピアニッシモ化)されるというか。「複雑にしてくれると思う」とひとつづきのフレーズにした場合とは違いがある(と思う)。これ、わたしにとってはとっても重要です。というのも読む側にしてみたら何かごちゃごちゃ煩いな、となるかもしれない、けれど、わたしは生粋の志向性明瞭派の中でも、さらに意図ってのはやっぱり大事(だって意図がわからないと「何ですか?」ってなるからね)派に属するhyper-intentionist(なんて言葉はたぶん無い)ですが、同じく抽象性を重んじる余白大事系な理解も持ち合わせてるもんで、それを見事に両立する(括弧)に惹かれるんですよ。 わたしと(括弧)との付き合いは、そうですね、少なく見ても25年はありますかね。 例えば、1998年12月26日のノートを見ると ・芸術とはRealityをコトバで(その特有のコトバで)切り取る事である ・核の無化による(無《限空間》化)realityの表現 など、とあり、すでにわりと複雑なことになっている。「補足・注釈・コメンタリー」としての使い方はわりと一般的でしょう。上の98年の例で言うなら、前者の使用例はわりとコメンタリーですが特徴的なのは(括弧)なのに繰り返しを含むバリエーションによる「強調」ですね。後者は強いて言えば「数式」系、「重層」系に属する使用法かな。 もちろん世の中には(括弧)世界の現実に到達した(括弧)を表立って用いないやり方も存在します。多少憧れもします。ある意味で(括弧)を用いずに(括弧)世界を体現できるならその(括弧)性はMaxに達してる可能性があるように思えたりもする!?ので。
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20220121_何だ?
2022年1月21日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「何だ?」という言葉を眺め考えていて、ふと思った。こんなにシンプルに[言い得ない何か]を体現した「(日本語の)言葉」があるだろうか?わたしには「何だ?」という文字の連なりと記号は素晴らしいフォーミュラ(数式)に思える。 そもそも言語自体が[言い得ない何か]を共有するという、よく考えてみれば矛盾したような動機を、いや、むしろ無理難題を解決する方法への希求こそを、起源として生まれた、と考えることができるだろう(か?)。仕草とか簡単な音とか合図的な何かでコミュニケートしていたであろう人類(など)が、何かをそれ以上に伝えたい、あるいは理解されたい欲求か必要か動機があったのだ、と仮定させてください、とりあえず、いまだけで良いので。 「うぅうううう、えぇえええええっと。(言葉以前の世界を言葉では当然表せないとは思いつつもそれを試みています)あぁあああああ~」という何か(=呼びかけ/call)が発せられた(たぶん)。そしてそれを聞いた誰か(がいなければ言語ではないとわたしは思う)が「うぅううううう、えぇええええっと、あぁあああああ~」という何かの狭間に感じたそれ(=応答/レスポンス)こそ「何だ?」の原型だったのではないか、と想像する、そして紛れもなく疑問形であっただろうこの「何だ?」が発せられた時に言語は産声をあげた。(とわたしは思う)。言語はきっと伝達欲求の音的な発露に次ぐコミュニケーションしたのかディスコミュニケーションに終わったのかわからないという不確定な状態から出発したはずだ。そしてこのコールからのレスポンス、というか原初的な「何だ?」の絡まり合いといったら、あぁ、これこそがリアリティ。その美しさといったらない。「願い」は叶わぬことで「願い」であり続ける、的な。始まりに「断絶」があった(かもしれない)、的な。あまりに切ない、妄想に近い? 言語的コミュニケーションの起源に関する想像を前提に、仮に、したとすると、発せられる言葉自体には意味がない=理解できない、としても、なんと、経験はできる(少なくとも音的に)。わからないことでも経験は出来る・・・聴き・想像することにこそ、あの「断絶」(の可能性をすくなくとも大いに含むやりとり)が人類にとっては壮大な旅の始まりにすぎなかった、と言える可能性があるようにおもう。 わたし(だけではないけど)は、よく英語で、とか日本語でとか、字源的なことや語源的なことを引き合いに何かの考えをすすめることがよくある。多言語による考察は、何かを言い表そう、その意味を捉えようとしたときに、これまで人類がいかに「それ」の周囲にある断絶を乗り越えて漸近しようとしてきたのか、という足跡をたどるような行為かもしれない。または、何かイメージしている色があったとして、10色ペンだったものを15色とか30色にするみたいなものだと考えればいい(のか?)。その勢いで100色、いや1万色?くらいあれば「橙グリーングレー気味の赤」みたいな謎な色のペンがあるかもしれないし、さすがに混ぜないと無理か・・・という複雑怪奇かつ出番のめったになさそうな色でも、すでに細分化された色を混交させることで近づくことができるかもしれない(あるいはそういう類の幻想を持つことはできる・・・)。そういった努力を繰り返しながら、旅は続く、あともう少しで「コミュニケート」できるんではないか?という淡い期待に動かされて、より細かく・詳細に・そして創造的に言葉を繰り出していくとき、ニッチな言葉や複数言語を織り交ぜた造語?みたいなものが生まれてくる(だろうか?)。細分化され専門化された色合いや意図やニュアンスはより正確・明確・鋭角になる。と、同時におそらく一般的に共有されている「こういうことだよね」という大きな場所からはどんどん離れていく道を、さらに逸れていき「ついてきてしまった」誰かをどこかへしっかり導くよりもむしろより複雑な混乱へと放り出すことになる小道・・・へと誘いかねない、といった結果を招くことに最適化されていき、その果てしない旅路の先にきっと「おかえり」と言って、にこやかに再び迎えてくれるのが、あのはじまりの「何だ?」なのかもしれない。
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20220121_展示
2022年1月21日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「展示」という言葉を眺め考えていて、ふと思った。「展示」、という言葉やニュアンスには視覚が常に伴う、と。もっと言うなら、展示―exhibitionという言葉には「晒される何かを観る誰か」のコロニアルな視座を感じざるを得ない。そこに違和感を感じる。なぜなら、わたしは何かを晒すつもりもないし、晒されることもよしとはしない。物見小屋・興味棚起源史観に基づいた言説に影響を受けていることは否定しないが、これはかなりの部分実感でもある。 わたしの場合、舞台にあがり自らを開くことに関しては大いに覚悟をもって臨んできたことなのである種「自らを晒す」状態には慣れてはいるのだが、ただそれはあくまでも生きて動くものとしてであって、自分を物化し陳列するような、そんなことをしたいとは思わないし、そんなものを観たいと誰かが思うとも思わない。そもそも「自分」に物的な価値はない、と思う。かなり穿ったそして偏った物言いだとは思うが、あえて展示ということばにまつわる何かしらを掘り下げてみるために、そんな風にとりあえず言わせておいてもらおう。そもそもわたしは「自分を表現する」みたいなことに一切興味がない。物化されなかったとしても「わたし」なんてつまらないものだからだ。ただ生きて動いているときには、動いている本体よりも「動き」が主体になり得る瞬間・可能性があると思うし、それを引き出すため方法に興味があるし、理想的な希望を申せば作品やパフォーマンスがわたし以上のものであることを願っているし、当面は作品たちの1番の理解者であるだろう「わたし」でさえもよくわからないものであってもらいたい。 そういう意味でこれははっきり言える。 I never was interested in expressing myself. そして再びの[ex](先ほどのexhibitionにもくっついていた接頭辞ですね)。 何にも増して、この[ex]がわたしの(おそらく生来の)興味とバッティングするのだ。 expressという言葉は表現と訳される。特定の意図された何かしらを「表」に現すこと。再度、穿ち偏った物言いをすると、表には表されているかもしれないが、内側はここで問題にはされていない。のではないか?なんて思う私はすでにそうとうに内側主義者なのであろう。つまり見た目が良くても美味くないものなんていうのは食いたくない派なのだ。もっと言えば見た目がいい場合に、実は美味くないんじゃないの?という可能性を常に意識する外側懐疑派だということでもある。端的に言うと、内実を問題にするタイプ、とも言える。転じて、どういう風に見えていようと意図が明確にあったうえでやったことであればそれだけが問題にされていればいいんじゃないの?派につきものの!?それでいいのか?問題は浮上する。 例えばemotionalなことの場合は何か感情的に(別の立場の人からしてみたら「勘違い」であったとしても)受け取った何かは受け取った人にとっては事実性の強い出来事なのでやはりそれがどうでも良いというのはちょっとまずい気がするし、歴史的な解釈にはこういった問題がいつもまとわりついているから、いろんなリサーチをしていても感情と事実は決して無関係ではないと思う。とサイドステップを繰り返してしまったが、ともあれ内側が一番大事、とかという言い方ではなく、理解されたいのは(少なくとも二項対立的な意味ではなく単なる比較として・・・私にとっては外側よりも)内側は大事だ、という部分だし、思考の傾向としては私は何かが内側にある場合にそれが外側がどうあるかということに影響するだろうという思考の順序をもっているという告白みたいなものだ。もしかするとこれは音楽的経験からくる実感かもしれない。同じような楽器で同じように弾いてみてもたったの一音でさえ違いがある。これは音を出す誰か・何かの内側の問題なのではないか?道具が何なのかという内側の段階や発音するのが誰(人でない場合もあるからね)、何(機械とかコンピューターとかね)、その他みたいな内側レイヤーもあり得る。あとは言葉でも言えるけど同じ言葉を聞いたとしても、何から何まで違う印象を受ける場合これは内側を問題にするしか・・・ないような気がする。と書いてみて思ったけど音とか声とかにはそもそも外装的なレイヤーが「見えない」のでやや例として機能しないくらい、わたしはそういうことに興味を偏らせているのかもしれませんね。わたしはあくまでも何かしらが体現されたものや体現するメカニズムに興味関心があるし自分もそういった興味関心+何かしらを体現するものでありたいし、そういうものを体現し宿す何かを作りたいと考えています。ね。 体現について私見を述べて考えてみます。表現という言葉をてこにしつつ。 体現されるものと表現されるもの Things that are embodied. Things that are expressed. embody em+ほにゃらら、という接頭辞であるemはinとほぼ同じニュアンスを持ち、内旋する力の方向と状態を示す。(例えばempowerというの言葉があるが、これは「力づける」と訳され得ると思うが、力づけられる何かしらの内側に働く何かがあって、力づけたられた何かしらは力づけられた状態になるということだろう。)em+bodyの場合、body的な状態に内側からなることであり、生きたもの=動きのあるものになる(である)、というニュアンスと考えることができるだろう。(全くの私見)と、ここで忘れてならないのはbodyはいつかは死ぬという事実。つまりembodyには終わりもが与えられている。とすると、体現されるもの/Things that are embodied. は動いているのです。常に。止まることなく。ただし終わるまで。 express ex+ほにゃらら、という字の連なりのexはoutとほぼ同じで、外旋する力の方向と状態を示す。(例えば手短にexpandという言葉があるが、すでに「延ばす」という意味をもつpand〈似た言葉で pandemic がありますね〉がex化されているので、これは単なる「拡大」ってだけでなくて、外側へ!というニュアンスをきっちり示したものということでしょう。)ex+pressの場合、pressっていうのがプレス=押す、なので外側へ!押す、ということです。この場合に押されるのは何か?内側じゃないの?ということも言えるのですが、実はそうとも限らない。何を外側へ!押すのか、は言葉そのものには明示されてはいないのです。 それよりもわたしには大事だと思われるのはこのpressという言葉に漂う一回性。(だって押す、と押し続けるは別の言葉ですよね。)つまり、表現されるもの/Things that are expressed. は外側に押し出された状態で止まっているのです。固定的な感じで。(たぶん) ここからexhibitionのexが外側だとして、hibitionってのは何だ?と考えてみると、hibitなんですが。住みつくという意味のhabitみたいですよね。同じあたりの字源のようですが、hibitはhabereからきていて「持つ」「保つ」という固定的なニュアンスがあるそうですんで、exhibitというのは外側に保つ感じ、やっぱり晒されてるんですね。と思っちゃう。 表現する者たちが展示する。 Ones that express exhibit. んだとすると・・・ 体現する者たちは何をするのでしょうか? Onse that embody do what? と、問うてからしばらくして、2月28日、わたしはひとつの可能性に考え至った。 体現者はインプロバイズするんじゃないだろうか? Ones that embodies improvise?
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20220123_まだcorn
メルロ・ポンティの「身体における表現と言葉」というテキストを改めて読んでみて(と言っても寝起きざまにまどろんだ状態でだが)妙にインスパイされた。正直文章の主語がどこにあるかいまいちわからないし、メルロ・ポンティがどこ軸に自分をおいて物言って流のか不明なところはあるんだけど、ともかく断片的にだと思うが、まどろんだ俺の朝脳とそこに飛び込んできた言葉とのもしかしたら勘違いかもしれないシンクロニシティがこれだ。 おーようやくきたか。 意味を所有するのは思考だ、とメルロ・ポンティ。 そうなんだよ、美味しいのはさcornなんだよ、と俺の朝脳。 言語そのものに意味が無いわけではない、とメルロ・ポンティ。 そうなんだよ、つぶつぶだけがcornじゃないってことだよね!、と俺の朝脳。
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20220124_影響とインスピレーションの速度の違い
思いつきとか気づきは朝やってくることが多い。 ということなんですけどね。 「とうもろこしの桂剥きを食った経験」と 「橙(だいだい)の種をさささって 取ってしまう方法」に関して熱く書いたあと、 わたしの脳はちょっと興奮していたと思う。 一晩かけて冷めたのだろうか。翌朝起きてみると、 お忘れですか?と控えめに問う か細いひとつの声と、 威勢の良いもうひとつの声を聞いた。 か細い声 どうも「リンゴの輪切り」です。 ちょっと前にお目にかかりましたが 覚えてらっしゃいますか? ほらあなたのお友達の家のキッチンで お会いしたじゃないですか? 「へー珍しいですねぇ」なんて おっしゃっていただいて。 わたしもちょっと鼻がたかかったんですよぉ。 わたし あぁ、その際はどうも。もちろん覚えてますよ。 (いま思い出した!) いやぁ、リンゴっていうのはてっきりこう ウサギにしたり、まるかじったり、 そういうなんていうか立体的なね食べ方っていうのかなぁ なんかそういうもんだと思ってましたからね。 あなた様のように輪切りになった平たいリンゴって はじめてでしたもんで。 なんだか楽しい心持ちになりました。 か細い声(aka リンゴの輪切り) えぇ、えぇ、わかりますよ。 私も実はいろいろな輪切りをやらせてもらってまして。 これまでは主に人参だとか、えぇ、時々ナス?なんかもねぇ。 でもそう言うのは普通って言ったらなんですが 面白みがそこまでないんです。それで、ここ最近わりと リンゴっていうのがあって、喜んでやってるんです。 なんでもネットでバズった?とかで。 なんにしても私も気に入ってましてね。 なんていうか意外性?ギャップってほらいいじゃないですか、 え!リンゴが!輪切り!ってねぇ。笑 わたし はぁ、そういうことですか。ですがね。 あなたのその素晴らしいところって言っちゃあなんですが、 そのタネがほらスパスパってとれるところ?あれが素晴らしい。 わたしはだいたい無駄に食べ物を捨てるってこと これが嫌いなもんですから。 輪切りにすると一番捨てるところが少なくていいんだよ、 って友人が言うもんですから、感心しておりました。 か細い声(aka リンゴの輪切り) えぇ、えぇ、みなさんそこをとっても褒めてくださいます。 私としてももちろんその点、栄養をねまるまる頂いてもらうこと これが嬉しいもんですから、えぇ、良いなぁと思っております。 威勢の良い声 お取り込み中失礼しますよ。 わたし あぁ!どうもいつもお世話になってます!港のすぐ脇の! 威勢の良い声 そうそう、いつもの港のすぐ脇の、 魚屋の三枚おろしです、鯖の。 わたし いつも見事だなーって思って見させて頂いてます。 威勢の良い声(aka 魚屋の三枚おろしです、鯖の。) そうでしょう?熱い視線っていうのかな、感じますよ。笑 それでね、ちょっと気になってね、おたくがね、 リンゴの輪切りってのは食べ物を無駄にすることが少なくて良い っていうようなことをおっしゃってたもんですから。 種だけをとってってね。わかるんですけどね、 三枚おろしってのはちょっと違う観点っていうのがあるんでね。 わたし はぁ。違う観点ですか。 威勢の良い声(aka 魚屋の三枚おろしです、鯖の。) いや、たしかにね食べ物を粗末にしちゃあいけない。 ただね三枚おろしってのは要は手際なんですよ。 ささっとやってなるべくネタをね手で触りすぎない これも大事なんですよ。 だからつめたーい水であらかじめ冷やしたりするでしょ? 魚屋なんで手袋してたりもしますけど、 あれもね衛生面ってだけじゃなくて、 人間の体温なんてのは魚にしてみたら 烈火のごとく熱い炭みたいなもんですから人肌で言うと。 味も変わってしまいますから。そういうのも考えてるんですよ。 わたし そうなんですか! 威勢の良い声(aka 魚屋の三枚おろしです、鯖の。) だからね、私が言いたいのはね。大事にするって言ってもね、 そのやり方ってのもいろいろあるってことなんですよ。 さささってやってしまうことでね、 捨ててしまうところはあるんです。一見するとさ 「あぁ、あそこの脂身食べれるのに」とかってのは思うでしょ? わたし (めちゃくちゃ思ってた!) 威勢の良い声(aka 魚屋の三枚おろしです、鯖の。) ただね、あそこで、ちまちまと骨をとってごらんなさい、 まな板に載せてる時間がながくなっちゃう鮮度がおちます。 魚屋から買った魚を運んでまたおたくの台所でも まな板に乗るわけだから。さらに長い時間経っちゃうじゃない。 つまり台無しっていのはそういうことですよ。 細かいところに手をかけすぎて、全体を無駄に、 ってのは言い過ぎかもしれないけどね、 でも全体のクオリティーが下がっちゃう。 鮮度が命だから魚ってのは。 わたし ほぉー!そういうスピード感だったんですね。 それでささっとやってぱーんと袋につめて氷水で、どうぞ!って。 威勢の良い声(aka 魚屋の三枚おろしです、鯖の。) わかってもらえます?三枚おろし、鯖の、 なんていうのはそういう気持ちなんですよ。 わたし そうでしたかー。もったいないの観点違いかぁー。 それに出たアラはアラでいただけばいいですもんね。 出汁にする、とかでね。 威勢の良い声(aka 魚屋の三枚おろしです、鯖の。) そうですね言ってもらえれば別の袋にいれてお渡しをしてますよ。 威勢の良い声で魚屋の三枚おろしです、鯖の。が、そう言い残すが早いか、 ふたつの声(あるいはそれは一つであったのかもしれない・・・)は それぞれの彼方に消えていった・・・ って、いったいなんの話?って? これは、つまり影響とインスピレーションの速度の違いについての話? なんですよ。 しかもアーカイヴにも絡んでて そっちの大きな空間の方で「とうもろこしの桂剥きにしたものを食った経験が 橙(だいだい)の種をさささって取ってしまう方法を生んだ」ということを 別のファイルが(ビートに乗せて)謳わせていただいてますが、 それってね、ちょっと片手落ちって言うか、 本当はもっといろいろあってそうなったって言う、 当たり前っちゃあ当たり前のことを言いたいんです。 インスピレーションとしての「とうもろこしの桂剥きを食った経験」 的な何かが「橙(だいだい)以下省略」的な発想の転換の瞬間には 必要不可欠だったわけなんですが、それだけではない。 もっと言うと、おそらくお気付きの方も多くおられたかと思いますが、 決定的なことでもありますがね「とうもろこし以下省略」の場合は 皮というか、桂剥かれた外側が食べるところ・・・ で「橙(だいだい)以下省略」の場合は桂剥かれた中側を食べる んですよ、だからどうした?ってことじゃなくて、 これは「とうもろこし以下省略」に内在する画期性の1面のみ、 意外なものを桂剥く=還元して言うなら、何かを意外なやり方で処理する のみを「橙(だいだい)以下省略」は周到しているわけです。 逆に言うと「橙(だいだい)以下省略」は「とうもろこし以下省略」の ある一面のみをピックアップしているにすぎない。というわけ。 何かに関して全部を一気に言う事とか無理何で、 やっぱり、こうして言及している何かに自分なりの真実を感じつつも、 何かしら(以上の結構大事そうな何か)が欠落している・・・とも思う リアル。 そんなもやもやの中で「リンゴの輪切り」(を食った経験)だとか 「魚屋の三枚おろしです、鯖の。」(を見続け、食ってきた経験)みたいなものが、 比較的、slowlyに、 あぁそういえばこんなことも影響しているに違いない、 あぁそういえばあんなことも影響しているに違いない、 あぁそういえばこんなことも影響しているに違いない、 あぁそういえばあんなことも影響しているに違いない、 あぁそういえばこんなことも影響しているに違いない、 と、複数形でリマインドされた、というわけ。 つまりもっとある、 なんならこれまで生きてきた経験の全てなのだから・・・ でね・・・ あっち側で、学ぶとはそういうことだろうか?的な問いかけをいたしましたけどね、 いやもっと言って良いと思って。 これ、もう「生きる」でしょ?ね?どう思います? 生きる。 そういう映画あったな、とかはいいんですけど。 「橙(だいだい)以下省略」に現れた何か、 この場合は「とうもろこし以下省略」に代表される 「何かしらを剥く方法」という 無形文化的なもの、が 「わたしは生きてきた」のひとつの発露であって、 芋づる式に、あるいは、原形追跡不可能なレベルで あれやこれやの経験などが、一体化し、混在している、 リアル。 いやこれもう、当たり前なんですけどね、でも何かひっかかるんですよ、 もうちょっと掘り下げたら何かありそうなのになーっていう そういうときあるじゃないですか? そういうやつです、いま。 それで、何が言いたいかというと・・・ 影響とインスピレーションの速度の違いっていうか・・・ そもそも影響もインスピレーションも受けてありきなので、 そこもまた考えに含めないといけないんですよね。 何かを残すときに、それが何であるか、何だと思われるのか それがどのくらいの速度をもったものなのか、 規定できない と思うんですけどね・・・
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20220206_phase(0以前から)2(から3へ)aka 「プレイヤー」について
Flageyからのそれなりに長い坂道を上る、頬にあたる空気が冬のそれだ、とは言えそこまでの寒さではまだない、なんて感じながら『この先に確実に(と書いてはみたが、今のような状況下で本当に確実なんてものが言えるのだろうか?と考えるなら、そもそも確実な時間はないわけだが・・・なんとかして?)生きられる(だろう)、今・ここからで言うと(そしてかなり正確には)「まだ生きられていない時間」に自分がい(きてい)る(だろう)とき、その時にこの考えがわたしのなかに存在し思考が継続しているかはわからないが、3月あたりにはともかくこのプロジェクト自体を振り返る予定にしている、というよりphase(0以前から)3(からどこへ?)を設けることで、こんな風に全行程中、何かが進んでいくなかで、すでに、そして常に、振り返り記すことを意識していくところから出来上がるはずの最後のテキストには「プレイヤー」達のことを含める必要があるんじゃないか、と思ったんだ。そして、その時、俺は、たぶんこの11月に書いている文章を全部青色に変えたりして、また一番初めにphase0(から1)以前に書い文章を使ってやったみたいに3月の俺が解体することを予感していたりもする。(そうすることでさ、ある種の「和声法」をなぞる事になるから、コンポジションとして、まとまってくる気がするんだよね。っていうのがやや手癖っぽくはあるからどうなるだろうなー。あ、そうかこのコメント的な文章がやや最初のものとちがうレイヤーに見えなくはないよね。うん。3月の俺どうする?) そう言えば、たった一度だけ全ての「プレイヤー」達が集ったミーティングがあった。でさ、途中くらいで思ったんだ、あーこのミーティングをするためにもしかしたらこのプロジェクトがあったのかもしれないって。それと同時に俺としたことが不覚にも録音ボタンを押し忘れていて「あーしまったー」「どうしたんですか?」「いや録音忘れてて」「あ、俺録音してるよ」「え!あとで共有してほしい!」そう一人の「プレイヤー」が録音してくれてたんだよね。いや良かった良かった。でさ、そのミーティングなんだけど、どういうわけか、というかそりゃそうなんだけど、結局のところほぼ何も決まらないままで終わったんだ。と言ってもさ、よくある集まる事だけが目的みたいな会議で生産性のないやつなんかじゃないんだ、むしろ、そう、概念的な会話にどんどんと舵がとられていって、話が具体性を欠いていくんだけど、当然何の話だかもわからないわけだから結論なんて無いし、さかのぼってこのミーティングで何を決めるんだかも関係なくなってくる、ただ「プレイヤー」の誰かが発した言葉に言語ロジカル的ではないユニークなレスポンスも含めたやりとりが時間の中に作られていってて、あー良いなこれ、みたいなね。 (ここに自分が好きな部分の抜粋・書き起こしを載せると良いかもしれないなー) そんな会話、だったり、言葉の交わしあい、あるいは誰かの言葉を聴く時間、を作れたことが嬉しいことだったんだよ。それで良い、というかさ。』なんてことを振り返って考えていた、まさにその日、2021年11月25日に、このWebはアップされていた!ことを今日、2022年2月6日に、私は知ったのだ、が、このあとに続く文章はphase(0以前から)0(から1へ)においてアップされたものとほぼ変わりはない、というか文章自体は変わらない。のだが____などを行いよりグルーヴするようにしたり、_____などを行い_____みたいなことをやってみたわけだが・・・振り返ってみると【ここからもとの〈2021年ではじまるグルーブ体と普通体のテキスト〉が来る→念の為テキスト本文貼りつけておきます、コメントリンクはこの場では割愛します】2021年8月5日。〈『おそらくこれは展示ではない。』(仮)〉という一文を、タイトルの様なものとして、テキストファイルの左上の隅っこに打ち込んだ時、プロジェクト胎動のきっかけとなったメールを受け取ってから286日が経っていた。そこからさらに2ヶ月ほどたった353日目の今日、10月11日、今まさに読まれているこの文章が綴られつつある。(と今まさに綴られた)、という書き出しが良いかもしれないと思いはじめたのは昨日か一昨日あたりのことだが、〈このプロジェクトは3ヶ月超の時間を要する。〉とした8月5日採用の表明(たねまきアクア08 p31に全文掲載)と同様に事実ベースでジャーナル風の出だしに通じる点が、うん、悪くない。 この文章は今回のプロジェクトにおける〈強いて言うならば、ひとつの体験としてはなかなか把握しきれないだろう時間のなかにつくられていくストラクチャー、期間中に生まれる様々な響き〉(と言っても意味論的な意味での響きだったり振る舞い・行為といった意味での響きだが)〈とその重なりや残響によってうみだされるコンポジション〉を文字通り(文字によって)体現し雰囲気が伝わる何かしらとなるべくして書かれはじめたのだが、それはそうとして、果たしてコミュニケートしていますか? やや具体的に言おうとしてみようとするなら、スケジュール(という名のスコア)が発表されるだろう、12月、1月、2月、3月を別々のphaseとして区切られ(と言いつつ、0から1の間に無数に存在し知り尽くすことなど出来ない数たちのように、恐らくずっと何かが連綿とあるのだろう、と思うが)、それぞれのphaseの出発点(つまり全体的に見れば通過ポイント)を設定し、私の探究と制作活動、これまでに培ってきたタクティクスを横断しながら紐解いてみるつもりであることも予告されるのだが、〈そう、譜面はある。〉し、それは「地図」のようなもので、おぼろげに「ルート」も描かれているかもしれない、〈もちろんプレイヤーもいる。アドリブが生まれ、予期せぬ飛び入りもあるかもしれない。コンポジションは自身を拡張したり、越えるための手がかりをも抱いている。そうであってほしい。有観客だろうが、ブラウズする人だけになろうが、そこに人が行きかい、厳密に言ってフリーではないがジャズではあるかもしれないそれを、おそらくほんの一部だけを聞く、あるいは目撃し、何かしらのタイミングとチャンネルがあえば体験する。〉のかなぁ、と想像はしているんだけど、果たして、相変わらず、それが何だ?と問われても、あぁ、まさにそのこと(だけ?)を考えているんですよねぇ、としか言えない気がしている、この先も、割とずっと。 そう言えば、このプロジェクトが胎動を始めた頃、コロナをきっかけにしてこれまでの活動を振り返ることに着手したわたしは、移動と整理の繰り返しを経た上でしばらくの間古い平屋の押入れに押し込められていたボロボロのダンボール箱、を引きずり出しながら、直接箱に油性マジックで書き込まれすぎてもう意味をなさなくなっていた中身のメモを読解しようとしたものの、結局のところは何だかわからないものになりかけているからあけて確認するしかなくなってしまったものたちを引っ張り出し、つまみ出しては、これなんでとってるんだっけ?とばかりに首をひねり、あーもしかしてあれかな!と横道にそれ過ぎはじめる、とてつもない長い道のりを感じながら、そもそもこの果てしない道の先なんてものがあるのか?先が無いなら「道のり」かどうかも知り得ないではないか?という、一段深まった風な謎に包まれたりしていて、それとは少し別のきっかけで意を決して、から随分とたった2021年の9月某日、過去の活動であれこれのハードディスクに分けられていたものを「全データ」集合!的にハードディスクに入れ直そうと思ったら、今時のコンパクトかつカラフルな5TBのハード2つに可愛らしく収まった「全データちゃん」みたいな10TB以下な私の20年に、なんだろなという可笑しみ、たったこれっぽっちなの?という一抹のやるせなさと、まーこんなもんか!というそこはかとない清々しさが、たぶん、いりまじった妙な感じに正直今も軽くうろたえている。 〈今度のコンポジションのマテリアルにはWeb、ハイパーテキスト、展示空間、イヴェント、パフォーマンス、その他に具体的なテーマとしてはアーカイヴ、それに関連して特に自身のこれまでの活動そのものをマテリアルとしたものにしたいと考えている。〉ことを体現するために早速こうして8月5日に書き送ったメールの本文(たねまきアクア08 p31掲載」)を引用、というよりは、思考を進め、上書きしている風に見えないかな?という考えのもと新たなテキストとして書いているわけだが、このプロジェクトに登場する諸々っていうのは〈それぞれは特段新しいマテリアルでもないだろう。ただ、私にとってのチャレンジは果たしてこれらをどうコンポーズし、自分を含むプレイヤー達に伝達するものとしていかに記述し得るのか、という点。そしてそれはほぼ同時にパブリックにむけられる。それはパフォーマンスなのだろうか?そんなパフォーマンスは可能なのか?という点。〉だろうなと変わらずに思っている、つまりはじめに立てた「おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)」という問いは、今やバリバリのvalidなのだ。(冬の風が寒い) 補足 phase0(から1)のためのテキストの締め切りは10月15日、357だったはずなんだが、Webの特性を活かし、今(10月18日、360)現在も最後の言葉は打ち込まれることなく、なんとなく最後の文章っていうのがあるとすれば、「このプロジェクトの開始(されていたこと)を告げることにする」くらいのことになるんではないだろうか?(と思っている) Last updated 2021.11.25.
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20220209_3(からどこへ?)のグルーヴ
2022/1/16にメモをした。 結論を先送りにすること、 断定を避けること、 自らを人に開き問う事、 そうして 考え続けること、 気づき続けること、 予感し続けること、 生き続けること、 はアクティヴだ その上で、可能な限りの可能性を「留保」する その事が(わたしにとっては)生きる上でもっとも大事なこと(かもしれません) 留保はある種の戦略であり とやかく狭小にならずに寛容であり得る 好奇を心に宿す 探求の核心 留保し得るかぎり挫折はない そう思ったら、(現代)アートは方便だ 留保する技術とその動機を示したり、 時には観る者にそれを、その機会を与えてくれる何か の 「ひとつ」でしかない アーカイヴ がある確定された言説や権力を担保する根拠として用意されたもの で あったとしても よく聴け その使い方、読み解き方、をずらすことができるなら それはアーカイヴの性格を留保することになる (だろうか?)
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20220227_印刷物_3rd printing(表面)用のスケジュール改文
2022年3月1日現在、【phase(0以前から)3(からどこへ?)494– 】に関して文字通り改めて言えることは【今回のプロジェクトは「何(だったん)だ?」と、最終的な考察をしつこく行う、が(あるいはそれによって)極力、断定的な振る舞いは回避、保留され、結論はどこまでも先送りされることが告げられる(んじゃないかと現時点では思っている)、だろうという考察を起点に】しつつ、当初【3月15–21日(プロジェクト最終週):ハイパーテキスト、空間(も適宜)の両方が日々アップデートを行うかもしれない。ひょっとすると現場にmamoruが入り、滞在するのだろうか? 関連動画はどんどんアップされ? 積極的に公開される?(としたら、何だ?)】としていたが、むしろmamoruはテキスト各種を3月1–7日に書き上げ、プレイヤー達と共有し、そこから何かが生まれるかもしれない最低限の時間を確保することを目指すということ。また3月7日前後に、@KCUAの1, 2階展示室空間、特設Webサイト、紙媒体の全てがアップデートされるだろうこと。また、非公開ではあるが3月14日の休館日に全プレイヤーが@KCUAの空間に集合し様々なフィードバックがなされ、その様子が撮影されるだろうこと。14日の全プレイヤーミーティングの際に新たな動きがあるかもしれない、とは思いつつも、余程ことが無い限りは最後の1週間ほどはこのプロジェクトの余韻を響かせようと思っている、のでmamoruが滞在したり動画のアップはないだろうな、ということ。そしてやはり【3月21日(プロジェクト最終日)以降:全くの未定、ということだけは決定している。】
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20220227_糸を縫う針_projection text
糸を縫う針 という言葉が口をついて出た。 「いや、だから、例えば・・・糸を縫う針」 みたいな? 感じで思いついた? 伝えようとした のは、ある種の「不可能性」か? いや、でもそのさ 糸を縫う針 なんてものはないの? でしょうか? 「糸が細いとは限らんでしょうな」 的な、とんち系の転回? は、あるかも、しれない? ナノ針みたいな?最先端技術系? の、ソリューションさえ荒唐無稽? だ、とは言えない? 今の時代? 糸を縫う針⇒いとをぬうはり⇒意図を縫う針 という読み替えは見当違い? いやそんなことじゃない、 これは茶番ではない 糸、を、縫う、針、 いたって、聞き、取り、やすい はい、はい、はい、 と、聞き流してしまいそうなくらい に、スムーズな音階 その響き の、familiality(*親しみ) と、あくまでも自然な連なりに、 物理的な不可能性 (だと思われる何か) を、いともたやすく さらりとかわす 糸を縫う針のごとく・・・ いつのまにか高度を下げる エンジンをもたぬ 一機のエアープレイン は、音も立てず cruisin’ & groovin’ 糸を縫う針のごとく・・・ phaseからphaseへと広がる水面 掻き分け進むこのテキストの 刻むその航路 は、エフェメラルな 空の轍 糸を縫う針のごとく・・・ 結論は先送り 垣間見えるのはただの動き かなり アーカイヴには捉え難き 問いに問いかける、 空の空 いっさいは空? で、割愛される? と、軌跡はない? 予定通りに調和されはしない じゃあパフォーマンスとは定義できない? そうは言ってもパフォーマンスではないとも言い切れない? としたら、何だ? と、逆照射 する、複数の意図が交差 し、プレイする果てに、 それぞれがノブを捻るEQ 高音域 中音域 低音域 少しずつずらし ピントを合わし 見えない音像を捉えようとし 版を重ね ながら、そもそも何にフォーカスするのかね? と、さらに絞り疑う ことを繰り返し 振り出しに戻し 留保する のは、牛歩する ある種の戦術でもある 断定を避ける ことで、自らを開き続ける ことで生まれ得る メビウスの輪 的な、この種の円環は ぐるぐると反芻 する、うちに、傾く ただただ 想像は 可能だ そうだ それは ありそうだ と、(おそらく) 万感の想いを 込めた ラスト・フライト を、君は見たんじゃないか? あるいはその響きを どこかで聴いた の、だろうか? おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?) と、ある朱に染まった 意図を 問う 間に 🛩 は むしろ 逆(説)に飛ぶ? の、だろうか? と、想い巡らしながら アイデアや理解なんてものは いつも遅れてやってくるんだ と、つぶやきながら 三月をむかえる、今 また アップデート
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20220301_phase(0以前から)3(からどこへ?)
何だ?、と2022年2月26日現在のわたしは考えるにいたったわけだが、そう言えばちょうど3ヶ月ほど前・・・Flageyからの〈中略〉今日、2022年2月6日に、私は知ったのだ、が、このあとに続く文章はphase(0以前から)0(から1へ)においてアップされたものとほぼ変わりはない、というか文章自体は変わらない。〈中略〉だが・・・振り返ってみると、2021年8月5日。〈以下省略〉
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20220302_、読点
2022年3月2日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「、(読点)」という記号を眺めていた。わたしにとってそれは音楽の休符みたいなものだ、ということはずいぶん前から知っていて、何年も何年もわたしによって書かれた言葉は「、読点」によって息をとめ、息を吸う。 時には、 (改行)とかも使用しつつ リ、ズ、ム、を、つ、く、る という風に文(節)末に「、(読点)」も「。(句点)」もない場合には結語をもたず宙空に浮く。それを不可視の「𝄐(フェルマータ:音符や休符を十分に伸ばす)」としてわたしは扱っている。 そして当たり前?かもしれないが? 「、(読点)」は、文中に現れる時、それ以前に語られた言葉の残響を湛えつつ、 その直後に来るほんの少し先の未来に語られようとしている言葉をすでに予感している。 「、(読点)」の打たれた概念的な場所はアーカイヴされたものとアーカイヴされるものという境界にあるのかもしれない。
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20220302_これは
2022年3月02日、わたしは『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「これは」という言葉を眺め考えていた。名もなきそれを呼ぶ術である「これは」、ほらあれ、あれ、あれ、なんだっけ?のときのあれとは違って何かしらの革新に満ちている(気がする)。それは I know what I am talking about っていう感じの態度かもしれない。「これは」の存在も所在も確かだ、と。なぜなら眼の前にあるのだから、と。だが眼の前とはどこなのだろう?誰かの眼の前というロケーションがどこかに常にあるのを知っている、としても、それは例えば「これは」日本国に住んでいてどの都道府県だかもその郵便番号も番地も知っていて何階の何号室だかも知ってはいる、としても、常にベランダの右端に座り込んでいるわけでもないようなもので、最終的には不確定で動的な可能エリアとして「これは」、と示すことくらいしかできないリサイクル可能なパッケージなのかもしれない。
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20220302_としたら
2022年3月2日、わたしが『おそらくこれは展示ではない(としたら、何だ?)』の解体を文字通り試みるために「としたら」という言葉を眺め考えていた「としたら」、何かを仮設・仮説し条件づけて、それを(ある程度)結ぶカタルシス的な言葉を期待させると考えた「としたら」、常にその顔の向きを右から左、上から下などある方向からどこかへと振ってみせる「としたら」、それと同時にそれ以前に語られた内容を受容しつつも、決して全面的に肯定したり、よもや断定したりすることはない「としたら」、だんだんと幼児のなぜなに攻撃かあるいはハッカーたちによるDDos攻撃ばりに繰り返されためこまれていくテンションが行き場を失う「としたら」、その先にはブレイクダウンが待ち受けているのだろうか?